るにチヤムバーレーンの予期したる愛蘭尚書の位地は彼に与へられずしてフレデリツク、オヴヱンデス卿に与へられたり。間もなくフレデリツク卿被害の報は倫動に来れり。余(マツカーシー)自身はパーネル氏と相伴ひて、ヂルク及チヤムバーレーンの二氏を訪問し以て愛蘭の善後策を談ぜり。当時チヤムバーレーンは尚愛蘭国民党に信任せられ、彼等はチヤムバーレーンを以て自治案に対する愛蘭人の要求に深厚なる同情を有するものなりと思へり。されど彼れは依然商務局長たるのみ、愛蘭尚書たるの機会は来らざりき。彼れが自治案に反対したるは此の以後に在りと。此に依りて是れを観れば、チヤムバーレーンが其の持説を一変したるは、自由党内閣が彼れに愛蘭尚書の位地を与へざりしもの其の主因たりしが如し。マツカーシー又曰く、初めグラツドストンの自治案に反対したる者は、自由党にも亦頗る多かりき。されど反対の焼点たりし条項はグラツドストンに依て修正せらるゝに至て、彼等は皆グラツドストンの指導の下に復帰したり。独りチヤムバーレーンは全く彼等と其の行動を異にしたりきと。余はマツカーシーの鋭利なる観察に依て、チヤムバーレーンの進退に関する真相を知ると共に、移して以て日本のチヤムバーレーンたる尾崎氏の行動を判断するの参考と為さむと欲す。故に特に其の大要を此に訳載したるのみ。

      (五)交渉の失敗
 政友会が各種の要素を収容せむとして、諸ろの方面に交渉したる画策は大抵失敗に終れり。最も与し易しと為したる貴族院研究会すら、宣言及綱領には賛成なれども研究会の会則は会員をして他の団体に加はるを禁ぜりとの口実に依りて入会を拒絶し、初めより伊藤侯の属望したる実業家の如きも、東京大阪に於ける高級分子は、亦皆入会を避けて其の薬籠中の物とならず。而して其来り投ずるものは、大抵政治を以て営利の目的を達せむとする政商か、若くは中流以下の地方実業家のみ。侯の失望亦以て察すべし。
 元来侯が実業家を収容せむとするの画策は、既に選挙法改正案提出の時に成り、而して其の改正案を成立せしむるが為めには、或は当局者として之れを議院に論じ、或は自ら貴族院の議席に就て之れを論じ、或は地方を遊説して其の所見を発表し、以て市の独立、市民の投票権拡張を主張したるは、蓋し亦実業家を味方として政界に立たむとするの後図に非るはなかりき。此の点に付て井上伯は深く侯の苦衷を諒とし、
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