軒げ手を揺がして語気を助けたりき。最後に彼れは最も興味ある佳語を以て、記者の傾聴を促がしたり。
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余を顧問としたる婦人同情会は女囚携帯乳児保育会なるものを組織したり。是れ其の名の如く女囚の携帯乳児を引取りて、之れを保育するを目的とする慈善事業なり。凡そ襁褓の乳児にして、其の母の有罪なる為めに、均しく獄中に伴はれて陰欝なる囚房の間に養育せらる、天下豈此に過ぐるの惨事あらむや、彼れ携帯乳児の、斯く獄舎の生活に慣るゝや、反つて普通児童の活溌なる遊戯を喜ばずして、再び獄舎に入らむことを望むものあるに至る。
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彼れは談じて此に至り、殆ど感慨に堪へざるものゝ如く、其の瞼辺は少しく湿るみ、其声は少しく顫ひぬ。
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一女囚の携帯せる乳児は、母乳の不足なるが為に、麦飯の※[#「睹のつくり/火」、第3水準1−87−52]液《オモユ》を飲用せしめたるに、激烈なる下痢を起して死に瀕したり。婦人同情会は之れを引取りて治療を加ふるや、此の半死半生の乳児は、忽ちにして健康体に復したりき。母の刑期満つるを聞きて、其の監獄に携へ往きて母子を会見せしめたるに、母は喜び極まつて泣き、以後決して罪悪を犯さずと誓へりとぞ。又た一乳児あり、声を発する毎に臍凹み頭脳は腫張して頗る畸形なりき。其の病源は不明なれども兎に角之れを引取りて養育したるに、頭脳は常態に復し、臍部の奇観も止みたりき。
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彼れは※[#「口+荅」、第4水準2−4−16]然として笑へり。冷やかなる笑に非ずして温かなる笑なりき。彼れは遽に容を改め、極めて荘重なる弁舌を以て犯罪を天性に帰するの理論を否定せり。彼れは犯罪を以て人生の不平に原本すと為し、家に財なく、身に技術なきは不平の由て起る所なるがゆゑに、犯罪を減少せむとせば、国家は貧民に教育を与へて、生活に必要なる技術を授けざる可からずと熱心に論じつゝ、静に椅子を離れて伝鈴を押せり。彼れは響に応じて来れる書生に、婦人同情会規則を持参す可きを命ぜり。斯くて一葉の印刷物を記者に渡たしたる彼れは、稍々其の顔面を曇翳を浮かべつゝ、
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真の慈善家は大抵資財なく、富めるもの多くは慈善家にあらず、儘ならぬ世や。
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と語り終りて座に復せり。

      其四 彼れの人格
 記者が
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