て、獨逸の内閣制は實に此の理想を基礎としたるものなり。されどビスマーク死するや、獨逸復た之れに次ぐの實力ある政治家なく、隨つて首相獨裁の内閣制は、事實に於て空名に歸したりき。伊藤侯にして果して之れを實行し得るの實力あるに於ては[#「伊藤侯にして果して之れを實行し得るの實力あるに於ては」に白丸傍点]、内閣の威信を立て[#「内閣の威信を立て」に白丸傍点]、行政の紀律を振肅する亦易々の業のみ[#「行政の紀律を振肅する亦易々の業のみ」に白丸傍点]。余は政黨の矯正よりも先づ此の理想の實行を以て侯に望まざるを得ず[#「余は政黨の矯正よりも先づ此の理想の實行を以て侯に望まざるを得ず」に白丸傍点]。
 顧ふに侯は先づ十分政友會を訓練し、然る後、内閣を組織して其の理想を實行せむと期したるものゝ如し。されど山縣内閣は、侯の成算未だ熟せざるに早くも總辭職の擧に出でたり。侯の狼狽想像するに餘りありと雖も、侯にして苟くも既に自ら起ちたる以上は、唯だ勇往邁進して其の理想を實行するを期す可きのみ。又何ぞ成算の未熟を以て念とすべけんや。

      (下)新内閣の人物
 伊藤侯の最初の内閣役割案には、政友會以外に於て井上伯及び伊東男の二人を算入したりしは殆ど疑ふ可からず。但し井上伯は老來野心漸く消磨したりといへば、自ら進で閣員たらんとするの目的ありしとは信ずる能はずと雖も、伯は政友會の創立には熱心なる世話人たり、新内閣の出産には老練なる産婆役たりしを以て、更に新内閣の保姆として重要なる一椅子を占むる權利を有したりしは無論なり。而して伊藤侯も亦之れを以て、伯に望みたりしは、既に公然の秘密なり。單に新陳代謝の必要より論ずれば、老骨井上伯の如きは、むしろ新内閣の伍伴たらざるを喜ぶべしと爲す。されど伯にして若し内閣の一員たりしとせむか、其の一種の潛勢力は多少内閣に威重を加へたりしやも知る可からず。伊東男に至ては、其の人品或は議す可きものありと雖も、其行政の才固より當世に得易からず。伊藤侯が彼れを新内閣に羅致せむとして慫慂頗る勉めたるは又當然といはんのみ。况んや彼れは伊藤侯と切て切れざる關係あるに於てをや。
 然るに伊東男は、最初より入閣を肯んぜず。井上伯は内閣組織の間際に於て突然失蹤したるは何ぞや。世間傳ふる所に依れば、伊東男は近頃漸く伊藤侯に親まずして反つて山縣侯に接近しつつあり。是れ入閣の勸告を拒絶したる所以なりと。此の説恐らくは揣摩臆測にして眞相を得たるものにはあらじ。余の聞ける所にては、伊藤侯は二三年以來頓に健康に異状を呈し[#「伊藤侯は二三年以來頓に健康に異状を呈し」に白丸傍点]、筋肉の機能次第に衰憊したると共に[#「筋肉の機能次第に衰憊したると共に」に白丸傍点]、神經系統の感應作用は反つて過敏と爲り[#「神經系統の感應作用は反つて過敏と爲り」に白丸傍点]、隨つて喜怒愛憎の變轉甚だ迅速にして端睨す可からざるものありと[#「隨つて喜怒愛憎の變轉甚だ迅速にして端睨す可からざるものありと」に白丸傍点]。侯の近状果して斯くの如しとせば、其何等かの刺戟に由りて、一時若くは或場合に於て、伊東男と感情上の衝突ありしやも知る可からず。されど此れが爲に侯と伊東男との關係一變したりとは想像し得可くもあらず。而も伊東男の新内閣に入るを避けたるは他なし。一言にしていへば、侯は政友會の創立に付ても[#「侯は政友會の創立に付ても」に傍点]、將た新内閣の組織に付ても[#「將た新内閣の組織に付ても」に傍点]、多くは伊東男に謀らず[#「多くは伊東男に謀らず」に傍点]、たとひ之を謀るも多くは其の意見を容れずして[#「たとひ之を謀るも多くは其の意見を容れずして」に傍点]、反つて伊東男の平生敵視せる他の人士に謀りたるが故に非ずや[#「反つて伊東男の平生敵視せる他の人士に謀りたるが故に非ずや」に傍点]。蓋し彼れは新内閣を認めて豫後不良の症状ありと爲し[#「蓋し彼れは新内閣を認めて豫後不良の症状ありと爲し」に白丸傍点]、伊藤侯をして早晩之れを自覺せしめて[#「伊藤侯をして早晩之れを自覺せしめて」に白丸傍点]、局外より侯を救ひ出だすの手段を取らむと欲するものゝ如し[#「局外より侯を救ひ出だすの手段を取らむと欲するものゝ如し」に白丸傍点]。唯だ此の推定は[#「唯だ此の推定は」に白丸傍点]、彼と伊藤侯との關係に就て[#「彼と伊藤侯との關係に就て」に白丸傍点]、常識上より觀察したるに出づ[#「常識上より觀察したるに出づ」に白丸傍点]。若し彼れに別種の隱謀奇策ありとせば[#「若し彼れに別種の隱謀奇策ありとせば」に白丸傍点]、是れ固より彼れ以外の人の窺ひ知る可き所に非ず[#「是れ固より彼れ以外の人の窺ひ知る可き所に非ず」に白丸傍点]。
 井上伯の失蹤は、渡邊子の心機一轉と相反襯して一幅の奇觀を表出せり。世間の
前へ 次へ
全125ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
鳥谷部 春汀 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング