6]伊藤侯だとか、大隈伯だとか、東郷大將だとかいふ人物は、所謂る歴史的豪傑であつて、田中正造翁などは口碑的豪傑である。
 ※[#丸中黒、1−3−26]日本には口碑的豪傑が極めて多い。單に徳川時代のみに就ていふも、大久保彦左衞門、佐倉宗五郎、幡隨院長兵衞、荒木又右衞門なんどいふ連中は、歴史的豪傑としては殘つて居ないが、兒童走卒も尚ほ能く其の名を記憶して嘖々是れを傳唱するのを思へば、彼等は正さしく口碑的豪傑の尤なるものである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]日本に講談師とか浪花節語りとかいふ藝人の起つたのは、恐らくは口碑的豪傑の多く輩出した爲であらふと考へる。而して此等の藝人に依て、口碑的豪傑が益々市井の間に持て囃さるゝやうになつたのである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]田中正造翁は隨分新聞紙の種を供給する人物であるが、歴史家からは多分淘汰されて仕舞ふだらうと思ふ。然しながら翁は歴史家に無視せらるゝと同時に[#「翁は歴史家に無視せらるゝと同時に」に白丸傍点]、必らず講談師や浪花節語りに拾ひ上げられて[#「必らず講談師や浪花節語りに拾ひ上げられて」に白丸傍点]、寄席の高座から口碑的豪傑となつて現はるゝの時があるに相違ない[#「寄席の高座から口碑的豪傑となつて現はるゝの時があるに相違ない」に白丸傍点]。
 ※[#丸中黒、1−3−26]翁は一度は代議士ともなつて、議會でも名物の一人に數へられた男であるが、翁は恰も日蓮宗徒が南無妙法蓮華經を一心に唱ふるやうに、始終唯だ鑛毒問題を怒鳴り通して居たのである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]近頃翁は官吏侮辱罪で訴へられて居る。相手は巡査とか村長とかであるが、相手は誰れであらうとも、鑛毒地の人民を迫害すると信ずるものは、總て之れを敵として奮鬪する。これが翁の終生の運動である。翁は此の運動の爲に、あらゆる悲慘をも甞め、あらゆる困難にも逢遇した。然し翁は悉く之れに打ち克つだけの勇氣と忍耐とを有して居る。
 ※[#丸中黒、1−3−26]金も欲しくない、命も要らない、名譽を望まないで、唯だ善と思ふ目的に向つて、側目もふらずに突進することは、常識本位の人には出來ぬ藝だ。世間は此の類の熱血漢を一種の精神病者と認むるのである。但し義人とか獻身者とかいふ奴は大抵精神病者と見えるもので、其の言動は往々軌道を外づれて居るものだ。
 ※[#丸中黒、1−3−26]田中翁も即ち其れで、現代からは狂人と見做さるゝかも知れない。實に翁は現代の厄介者である。富の勢力にも屈しない、政府の權威にも畏れない、又世間の毀譽褒貶にも頓着しない。なか/\始末にいけない代物である。加ふるに根氣よく奮鬪を繼續して毫も休止しない所は、何となく其の個人性に薄氣味の惡るい點があるやうに思はれる。
 ※[#丸中黒、1−3−26]翁は迷信の爲に運動するでもない[#「翁は迷信の爲に運動するでもない」に白丸傍点]、又主義の爲に運動するでもない[#「又主義の爲に運動するでもない」に白丸傍点]、唯だ直覺に依て運動するのである[#「唯だ直覺に依て運動するのである」に白丸傍点]。翁は猛烈なる可燃質の人物であるから[#「翁は猛烈なる可燃質の人物であるから」に白丸傍点]、一旦或る動機に刺激せられて其の良心に發火するに於ては[#「一旦或る動機に刺激せられて其の良心に發火するに於ては」に白丸傍点]、自己の身が燒け盡くるまで燃ゆるのである[#「自己の身が燒け盡くるまで燃ゆるのである」に白丸傍点]。翁は消極的に善を行ふよりは[#「翁は消極的に善を行ふよりは」に白丸傍点]、寧ろ積極的に惡と戰ふのである[#「寧ろ積極的に惡と戰ふのである」に白丸傍点]。
 ※[#丸中黒、1−3−26]斯る個人性を有する人物は、たとひ何一つの建設した事業がなくとも、人生に深い印象を與ふるの力を持つて居るものだ。而して此の印象は容易に消ゆるものでない[#「而して此の印象は容易に消ゆるものでない」に白丸傍点]。
 ※[#丸中黒、1−3−26]講談浪花節の好題目となるのは、此の類の人物で、能く歴史的豪傑と雁行して人口に膾炙することが出來るのである。而して其の群衆に及ぼす感化力は、歴史家に依て傳へらるゝ人物よりも講談師や浪花節語りに依て傳へらるゝ人物の方が強いやうである。
 ※[#丸中黒、1−3−26]講談師若くは浪花節語りの口頭では、伊藤侯も田中翁も、人物に於て大した違ひがなくなるだらう。口碑的豪傑の價値は茲に在りといふべしだ。(四十一年六月)



底本:「明治文學全集 92 明治人物論集」筑摩書房
   1970(昭和45)年5月30日初版第1刷発行
   1984(昭和59)年2月20日第4刷
底本の親本:「春汀全集 第一卷」博文館
   1909(明治42)年6月
入力:Nana ohbe
校正:
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