リカルじゃ」
 答えなかった私は這々のさまで、自分の室へひきあげた。およそ雑談はこういう種類の罪のないもので、正しい見当は誰れにも判らないくせに、節穴やヒステリカルでもおさまっていた。
 とよ子がベッドで外の話声を聴いて、蛸さんて実に名の通りだなどと、おかしげに云った。
「私が窓から見ましたら、口を尖らせる時には額に三本横筋が寄りましたの、このテレスを通る時にはいつでも私を覗いていたりして、おかしなひと」
 おどろいたことにはその翌朝廊下を通る蛸さんを見ると、額に大きな絆創膏を貼っていた。皺伸ばしを説明しているのをきいても、私はあまり驚けなかった。病院というところは、誰れが熱を出した、誰れが血痰したというような細事をまで声なき声のように疾風迅雷的に耳から耳に伝わるものであった。とよ子の声がいやしくも他人に係わっていた限り、反響を起したのもふしぎはなかった。
 病院内の交際などで病人たちが慰め合ってる気風もとよ子に次第にわかりはじめ、時折りは長兄の見舞を待ちわびる気持も、周囲の空気のなかに紛[#底本は「粉」、35−17]らかされていた。
 何かの歌謡曲を澄んだ丸味のある声で唱っていたりして、腹痛の柔らいでいる時には、何か思い出している様子も見せた。
「山野さん、私ね、まだ男のかたと一度も交際してみたことありませんでしたの。私の故郷の方ではお盆のころ山の方へ若いひとたちがあつまって、笛を吹いたり踊ったりすることになってましたけれど、私は一度も行きませんでしたの」
 私はなんと答えようもなかった。とよ子も何処かで短かい生涯を予感してでもいるのであろうか、若い娘がこういう心の寂しさまで私に開いてみせてくれたことが、あまりにも私の心を打ち、と云って不吉な予感など持つ自分が忌まわしくあった。
「今にとよ子さんも達者になれば、いくらでもお友達はできますよ」
「そうでしょうか」
 あどけない眼つきで、来る日を夢みる様子でもあった。
 十五日ほど指折り数えていたあとで、待ちわびていた長兄の代りに、嫂がふいに病室の扉を引いてはいってきた。
 野径を油断なく見詰めていたはずのとよ子も、瞬間ギョッ[#底本は「ギョツ」、36−13]としたように嫂の近づく[#底本は「近ずく」、36−13]姿に眼を向けた。
 色の小黒い、眼鼻立ちも見分けられぬほど固く凝り結んだ顔つきであった。人間がひとつの不快
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