天地としていた私は、自分ながら面のあげられないような行届いた世話もうけ、心のなかでは跼いて詑びたいことも度々であった。それだのにどのような礼言よりも、かの女の望む、かの女のよろこび語る声が、私にたやすく迎えられないのが私自身にもふしぎであった。
私の症状もその後大体におちついてくるようで、夜と共に眠り、朝は一定の時間に眼覚める快い日も得られるようになった。眠りの時が少しでも深く安らかになれば、回復に向うそれがひとつの徴であった。やまいの面白くない時には真夜の眠りの時に、自分の呻きを自分で聴き、体の狂いを噛みわけ、血肉を涸らす秒刻を知るものであった。病苦にもそれを忘却に包むひと時がなかったが、最も険悪な昏睡にしかのがれ道はまずなかった。
そういう夜々も送って来たあとで、安眠のあとの朝ほど私にありがたく思われる時もなかった。指折り数えて七時間も眠ったとすれば、円滑な生命の回転がそれだけ蔽れて潜み、健康な知覚に眠覚ましてくれるのであった。生とも死とも別な安らかな眠りの境いのえられたことは、病者にとってはたとえば地震におしつぶされる瞬間にも飛び起きられる力の蓄積に相当するものであった。
夜八時の消灯から素直に眠りにはいられた翌朝は、ぽかりと夜明けに眼が覚めた。まだ地上は闇で、空だけが銀の薄光を放っていた。開放した窓からは洗うような大気が私の顔の辺に吹き通い、殊に晩秋の晨のひそやかな暁の気は、私の追い詰められたこの最後の生涯にほかならぬ、ひとつのベッドに沁み渡った。
南に面《おもて》をむけて瞳をあげると、東方に寄った空がまず透明な淡い白光を現わし、水色を帯び、ややしてあわい青緑色に澄み光って来る。その黎明は、緩やかに移ろい、やがて緋のうす色が射しはじめる。棚びく雲があれば雲のふちを色どり、金粉をはじく金色の征矢を放ち、東天は俄かに青緑の空と、くれないの旭光とで絢爛を現出するのであった。だが夜明けとなれば既に暁闇と旭光の織り出す絢爛は消え、一気に一音の合図と一緒かのように、視界は隅なき明るさに明け放たれるのであった。
勤勉な小谷さんはたいていまだ東天の美しい時分に私のベッドに出勤してパチリと電灯をつけた。きびきびした順序で私にまず歯磨粉をつけた楊子を与え、私が歯をこすっている間にはコップを持ち添えており、済めば床頭台の上の含嗽用のものを清め、私の髪を二つに分けて編み、
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