つた。だが御當人はすつかり好い氣持で、長々と脛を出してをつた。その脛には熊襲のやうに黒々と長い毛が生えてゐた。
 サイダーが盛んに賣れる。幾ら飮んでも喉が渇く。上に着けてをつたノーネクタイのワイシャツが暑くてたまらない、到頭之を脱いで網目の半袖のシャツに換へる。下はゴルフパンツだから、すつかりフェヤウェーに於けるゴルフ姿と思つた。
 この日猛烈にスコールがあつた。豫ねてスコールは激しい夕立だと聽いてゐたが、激しい夕立どころの騷ぎではない。船はすつかり眞白い雨で包まれてしまつて、前方が全く見えなくなつた。雨の落ちてゐるところは眞白な傘を降ろしたやうである。その間にぴゆうぴゆうと凉しい風が絶えず首筋を冷やす。それでも別に上にものを重ねて着る氣持は起らなかつた。
 夜はこの數日來汗だらけの身體で轉々反側、しよつちゆう目を醒ましてゐる。ベッドの上が汗でべたべたに濡れてしまつた。
 その日も暮れて七日目の朝が來る。
 もうどうにもならぬ熱帶の暑さだ、誰も彼もはあはあと犬のやうに喘いでゐる。
 かう暑くてはたまらないといふので、思切つて、一種の反對療法で、船内で一番暑い機關室見學を許して貰つた。
 中は猛烈な暑さだ、寒暖計を見ると水銀が四十度のところに廻つてゐる。十五分間で大汗をかいて上甲板へとび出す。海原から吹付ける凉風の凉しいこと!
 サロンの寒暖計は二十九度だ。海水の温度がそれよりももう一度低くて、二十八度である。水温が攝氏二十六度。その以上[#「その以上」はママ]になると、船から絲を降ろして囮の餌を附けると魚が喰ひつくといふ話であつた。艫の方に行つて見ると、成程その絲が引張つてある。暫く見てゐると本當に魚が喰ひついた。しいら[#「しいら」に傍点]といふ魚だ。色の黄いろいなんだか西洋鋸のやうな魚である。
 みんなの顏が相當黒くなつた。
 それから先は次の日も、又その次の日も同じことである。到頭暑さの絶頂に來たのだ。
 風が舳先から吹いてゐる時は甲板にゐても非常に凉しいが、風が變つて船の後から吹くと、甲板にゐても風があまり吹かない。そのときの蒸し暑いことといつたらない、まるで夕凪の中にゐるやうな氣がする。私は一生懸命に扇子を使つたり、又サロンへ逃げて扇風機に當つたりする。しかしその風も、風が當るといふだけで、生温かい。凉を求めてさつぱり凉を得られないので段々腹が立つて來る。船室で辛抱して寢てゐたが、どうにも我慢がならない。
 そこで到頭一つの企を考へた。それは毛布を持つて甲板に寢ることである。これはいい考へだといふので、仲間の者がみんなそれを眞似して、毛布と枕を持つて甲板へ出た。ある者はハッチの覆ひの上に毛布を擴げ、又ある者はベンチの上に擴げた。
 凉しい風が吹きこんで成程いゝ氣持だ。
 寢ながら星が見える。もう熱帶へ入つたから星はきらきらと美しく輝く。その數も内地で見るよりも十倍も二十倍も數が多い。
 これは大變な風流だとみんな喜んで寢てゐたが、夜中にひやつと冷いものが身體に落ちて來たので、びつくりして目を醒ました。
 ぽつんぽつんと大粒の雨が顏にかゝる。スコールだ、愚圖々々してをるとあの瀧のやうなスコールにずぶ濡れになる虞がある。仲間を叩き起した。みんな殘念さうな顏をして船室に歸つた。
 船室の中は超蒸風呂だ。その時ぐらゐ情なかつたことはない。
 到頭明け方迄眠れなかつた。

   船と風呂

 われわれ日本人は頗る風呂好きである。
 内地の港を出た時は眞冬だつたが、それでもわれわれは毎晩風呂に入れと勸められ、毎晩缺かさず入つた。入らなくてもいゝのであるけれども、船の風呂がちよつと珍しかつたからだ。
 その風呂は、鹽湯だつた。詰りこれは海水を汲み揚げて、それを機關室からの熱い蒸氣で熱するのである。その湯槽の傍に眞水の入つたタンクが附いてゐた。鹽湯に入つた後でこの眞水のタンクから少量のかゝり湯を汲み出して身體を洗へといふことであつた。
 鹽湯は珍しかつたので初めはみんな喜んで入つたけれども、しまひには悲しくなつた。どうも身體が何時までもべた附いていけない。それを取るには勢ひ眞水のタンクから澤山かい出さなければならない。ところがそれをあまりかい出すと底が見えて來て、後で入る連中の使ひ水が無くなる。内地の習慣が殘つてゐてこの眞水のかゝり湯はさう儉約出來ない。從つて後から入る者の二三人は鹽氣の拔けない身體で寢床へ行かなければならなかつた。
 こゝでもう一つ困つたのは、浴室が猛烈に蒸し暑いことであつた。何しろ機關室からの蒸氣といふものはひどい熱である。船室にゐてさへ蒸風呂のやうであるが、この浴室の中の蒸し暑さ加減といつたらまるでトルコ風呂だ。だから浴室へ入つた途端に頭がぼうつとなつてしまふ。
 もう一つ困つたのは鹽水では石鹸が使へないことだ。いくら石鹸を兩手で揉んでみても泡が立たない。仕方なく眞水の方で石鹸を溶かす、それを身體になすり附けると又かゝり湯が要つて、甚だ水の濫費になる。
 船員はどういふ工合に風呂に入つてゐるのかと疑問を起した。
 五日目に一度眞水の風呂がたてられる。今日は眞水の風呂だといふ掲示が出ると、みんなはどつと聲を擧げて喜ぶ。
 その夜眞水の風呂に入つた。全く氣持がいゝ。清々として身體はべと附かない。矢張り風呂は眞水に限ると、みんな長い風呂になつてしまつて、後から入る番の仲間にせき立てられるといふ有樣であつた。
 南洋に着くまでに、眞水の風呂は二度入つたきりである。
 熱帶に入つてからみんな皮膚病に取付かれた。先づ足の指の股に水虫が出來た。こいつはどんどん殖えてしまつた。次に睾丸が痒くなつた。いんきんらしい。もう一つ全身に長い吹出ものが出來た。痒くてならない。是は汗疣だ。
 さういふ皮膚病に罹つて鹽湯に入ると箆棒に痛痒い。患部をよく水で洗つて鹽氣を取除くのであるが、何しろ糜爛してゐる患部であるからなかなか鹽氣が拔けない。その爲に段々症状が惡化するやうな氣がした。ある男の説では鹽湯は汗疣の藥だよと聽いたが、どうもこれは當にならないやうだ。
 それから五箇月程經つて私は又別の船で南洋から内地へ歸つて來た。この船は初めの船とは違つて大變設備がいゝ船であつた。船客も少く、而も私が一等船客の主席であつた。その爲に客室も立派であつたし、入浴も眞先にボーイさんが案内してくれた。
 浴室は頗る豪華なものであつた。何だか内地のホテルへ歸つて來たやうな氣がした。しかし矢張り大理石のバスの中は鹽湯だつた。石鹸を溶かしても一向溶けないあの鹽湯である。
 しかしこの時には私はもう大分鹽湯の扱ひに馴れてゐた。眞水を使つても、小さな桶に三杯使へば充分であつた。これは戰線に於て長い間巡洋艦などに乘つてをつて貴重な眞水の使ひ方を充分會得した爲であつた。
 船が愈※[#二の字点、1−2−22]内地へ近付き、もうあと一晩である港に入るといふ夜、眞水の風呂がたてられた。この時ばかりは文字通り蘇生の思ひがした。何しろ往きと違つて、歸りには戰地で得た皮膚病が猛烈にひどくなつてをつた。水虫はいゝ藥があつてうまく治してゐたが、當時第何回目かの汗疣に罹つてゐたし、もつと困つたことにはいんきんは非常にひどくなつてゐた。おまけに戰地でどこから得たか、田虫まで背負ひこんで、身體の方々に赤い輪が出來てゐた。さういふ状態で鹽湯につかるのは樂なことではなかつた。
 序でだから言ふが、この頑固な皮膚病も内地へ着いて四五日温泉に入つたりなぞしてゐると、けろけろつと治つてしまつた。
 軍艦にはバスがある。われわれは士官用のバスに入つた。毎日缺かさず入つたが、有難いことに眞水の風呂であつた。但しバスの中に入つてをる湯の分量は非常に少い。身體を横にして湯が僅に股の上に來るくらゐであつた。だから全身をつけるといふやうなことは出來ない。手で以て盛んにこの水を掻き廻して身體中にかけるより仕方がないのだ。又バスの中の湯は確に湯ではあるけれども、温度が低くて、中へ入るとひやりと冷い感じがした。
 バスの外にパイプが引いてあつて、これから使ひ水が出る。この使ひ水の方がよつぽど熱かつた。これは嚴重な制限があつて、小桶に三杯以上は使へない。この水が蒸溜水であるとは豫ねて知つてゐたから、餘計に水が尊くなる。
 汽船の中ではそれ程にも感じなかつたけれども、軍艦の中ではどんなことがあつてもその規約を守らなければならぬと思つたので、私は色々氣を使つて、制限内の水でうまく身體を洗ふことにした。氣を付けてやれば決して出來ないことではないのだ。しまひには二杯ぐらゐの水で、身體を石鹸まで附けて淨めることが出來るやうになつた。
 洗濯もこのバスの中でよくやつた。それにしてもあと一杯ぐらゐの水で充分洗濯が出來る。身體を洗ふ前に先づ洗濯すべきものを順々に重ねて置いて、それからその上に立上つて、身體を洗ふ爲に石鹸をなすり附ける。それから手拭でごしごし石鹸を揉んで身體を洗ふ。その石鹸水が身體を傳つて段々足から洗濯ものの上に落ちて滲み込んでいく。
 かうすると身體を洗ふ爲の石鹸は石鹸水となつて洗濯ものをたつぷりうるほす。身體を洗ひ終つたら愈々洗濯にかかるわけだが、洗濯ものはさつき言つたやうにすつかり石鹸で濡れてゐる。一番上にある洗濯ものを兩手でごしごし揉む。その時に石鹸の泡が立つて下に落ちるが、それは石鹸水がこれから洗濯する汚れものの上に落ちるのである。
 かうして次々に洗濯ものを揉んでいけば、最後まで石鹸水は、たつぷり汚れものに滲み亘るわけだから、石鹸も節約出來るし、水も節約出來る。
 かうして置いてあとは充分絞つて石鹸水を切り、最後に桶の中に入れて水で濯ぐのである。少しぐらゐ石鹸が殘つてをつても、よく絞つた上、寢床の上に吊つて乾かせば、一時間乃至二時間の間に、さらさらして乾いてしまふ。さうして肌に着けても、別に氣持が惡くないのである。

 内地へ歸つてからもこの習慣が殘つて、水をあんまり前のやうに浪費しなくなつたのはわれながら嬉しいことである。
[#地付き]『科学知識』昭和十八年五月号



底本:「海野十三メモリアル・ブック」海野十三の会
   2000(平成12)年5月17日第1刷発行
初出:「科学知識」
   1943(昭和18)年4月号〜5月号
※「愈※[#二の字点、1−2−22]」と「愈々」、「お呪ひ」と「お呪」の混在は、底本通りにしました。
入力:田中哲郎
校正:土屋隆
2005年1月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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