科学者と夜店商人
海野十三
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)匍《は》い出さずには
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二|糎《センチ》立方位の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あら[#「あら」に傍点]を
−−
こう暑くなっては、科学者もしぶしぶと実験室から匍《は》い出さずにはいられない。気温が華氏八十度を越えると脳細胞中の電子の運動がすこし変態性を帯びて来るそうだ。そんなときにうっかり忘我的研究をつづけていると、電子はその変態性をどんどん悪化させ、遂には或る臨界点を過ぎてしまった。再び頭脳は常態に復帰しないそうだ。そうなると病院の檻の中に実験室をうつさなければならないので、さてこそしぶしぶと実験室を匍い出たわけである。
ムンムンする蒸し暑い夜だった。実験をやることも書物を読むことも許されないと、一層暑さが身にこたえるようだ。家へ帰っても今から寝るわけにも行かないが、一先ず帰宅をしようと思って十日ぶりに我家(とは名ばかりの郊外の下宿の一室)へ首《かしら》をたてなおした。
彼の下宿は、中央線の中野駅を降りてから十五分も歩かなければ到達しないほど辺鄙《へんぴ》なところに在る。その道を歩きながら、夜の人通りに物珍らしさを感じたのであった。歩いて行くに従って路の上に含有される人間の密度が多くなって来たが、それは益々増える一方で、軈《やが》てのこと科学者は人間の群から圧迫せられてどうにも動けなくなった時、彼自身が縁日の夜店の真唯中に在ることを発見した。
首をもちあげて、あたりをキョロキョロ眺めてみると馬鹿に明るい――というよりか大変な眩しさであった。恐らくは明るさの密度の点では銀座街もこれには及ぶまいと思われた。縁日の商人は、陰影のない照明をやるのに照明学に従って間接照明法を用いず電球を裸にむき出した儘《まま》の直接照明法で、これに成功しているのであった。その代り電柱の上のポール、トランスは今や過負荷のために鉄心《コーア》はウンウン呻り、油はジュウジュウとあぶくを湧き立てて対流をはじめ、捲線の被覆は早くも黄色い臭いをあげて焦げつつあった。尤もこの勇敢なる裸電球の照明法は行人の瞳孔を極度に縮少させ、商人が売っている品物のあら[#「あら」に傍点]を発見し得るほど充分永く、行人の注視を許さないという商人の商略から来ていることだった。
科学者はこの人波をわけて通るために生ずる恐ろしい人間抵抗を思ってウンザリした。そして彼の実験室にあるコロイドの一分子が、高熱せられたるビーカーの中にあって、如何にもがきつつ同様の圧迫と恐怖に苦しんでいるかを思いやることが出来た。
科学者は溜息をついて、側《かたわら》を見ると、そこにはファラデーの暗界《ダークスペース》の如き夜店が眼にうつった。というのは眩しい軒並の夜店が、そこのところだけ二間ばかりも切れていて、そこだけ歯の抜けたように薄暗らかった。彼は学生時代に亡《なくな》ったD博士とファラデーの暗界の研究にアッシスタントをつとめていた昔を思い浮かべて、なつかしげに眼の前のダーク・スペースの方を見ると、其処に汚い着物を着た一人の男が、バケツをかかえるようにして、しゃがんでいた。
その男は下を向いて何かブツブツと独言《ひとりごと》を言っていた。多分、電球が切断してこんなに真っ暗になっているので実験――イヤ商売が出来ないで悲観しているのであろうと、彼科学者は思ったので、その男の傍へ近づいて、さて言った。
「君、実験が出来ないで弱っているのかい」
「実験はやっています」
とその男は平然と答えてバケツの中を指した。それは不思議な黒ずんだ色を持った液体であった。はじめは液面は平かに静止していたがややあって、すこし表面波の小さいのが現れたと思うとポッカリと真黒い二|糎《センチ》立方位の物が浮かび出でた。よくみると、それは小さい鵜烏《うがらす》であった。全身は真黒で、嘴《くちばし》だけが朱色《しゅしょく》に輝いていた。その烏は科学者の方をジロジロと見廻しているようであったが、呀《あ》ッという間もなく液体のなかにもぐってしまった。すると又ヒョクリと浮かび上がって来るのであった。その男の言うところによると、これは生きている烏ではなく、鵜烏の模型なのだそうである。ただ或る仕掛けによって斯くは不思議な運動をするのだそうである。科学者はその仕掛けについて質問したがその男は、それを話しては商売にならぬから、説明書を金十銭で買えと薦《すす》めた。しかし科学者は、科学者たるの名誉を以てそれを拒絶すると同時に、バケツの前にしゃがみこんで考えた。
或る物体が液面に浮かび出、又沈むというのは明かに浮力の作用である。見たところ液体は一定の密度を持っているらしいから浮力の計算式は、非常に簡単になる。浮いているものが沈むためには、どうしても外力が働かねばならない。外力は普通の場合、重力と気圧とに限られている。気圧が増大すると空気が圧縮せられて浮体自身の浮力が減少し、沈降を始めるわけだが、これは開放されたる大気中に在るのだから、そんなに気圧が変動する筈はない。それに鵜烏は浮かんでいるかと思うと、忽《たちま》ちサッと姿を没するほど運動は急激に行われるから、そのためには気圧は一瞬間に何十|粍《ミリ》という急角度の変動を必要とする。それは常識で考えても、又気象報告を調べても有り得べきことではない。
重力の方の変動も、あまりに数値が大きいので勿論あり得べからざることだ。するとこの問題はいよいよ特殊の場合について研究することを要する。それには先ず液体について、疑問の矢を向けるべきであろう。何か特殊な溶液であるかも知れない、と考えたので科学者はいきなりバケツの中へ手をつきこんでみた。
「困るなア、旦那」とその薄ぎたない男が顰《しか》めッ面をして叫んだ。科学者はその間、早くもこの溶液が常温にあることと、多少の酸に似た臭気のある事を発見した。で彼は更に進んで聞いた。
「この液体はなんですか?」
「エエ……」
「この液体はナンであるですかッ?」
「これかネ――これは泥水でさア」
「アノ泥水――土の粒子《つぶ》を飽和した水……だと言うのかネ」
科学者は眼をパチクリとしたが、その瞬間に彼の推理はプロペラの如く廻転をはじめた。――泥とは水を飽和したる土である。土というのは大地の微粒子である。大地は良い電導体であるし、水も電導体である。酸に似た臭気のあったところから、酸が混入したあったとすれば益々電導体の液体であると言わなければならない。而《しか》も液体の容器は錫鍍《すずめっき》鉄板《てっぱん》で出来ているバケツではないか。おお、この液面は大地電位《アース・ポテンシャル》に在る。この液面は接地《アース》されていたではないか、と科学者は意外な発見に興奮して来るのをヤッと冷静に抑えつけることが出来た。
鵜烏は不電導体である。これを載せたる液面は良電導体である。若しこれがアベコベだったら鵜烏に小さい鉄片をつけて置いて、液中に電磁石をしのばせれば、電磁石の吸引力で鵜烏を水中に引っ張り込むことが出来るのだが、如何にせんそれとは全く逆であるのだから駄目だ。
だが全く逆であること、つまりある条件がネガティヴ的に満足されているということは、一寸面白い問題ではあるまいか。若し液が帯電状態にあるものとし、これが普通の状態として非帯電状態に在る鵜烏を見れば、これは明かにネガティヴの電気的歪力がかかっているとも考えられるわけである。所謂、相対性理論をつかえば立派に証明のできることではあるまいか。すると、この薄汚い男は、早くも其の結論をつかむことが出来て、今や夜店に出でて商品を売り研究費の回収と、製品の寿命試験《ライフテスト》をやっているのではあるまいか。科学者は、正《まさ》しく素晴らしい研究問題にぶつかったのを感じた。更に更に偉大なる研究のフィールドがこれを緒《いとぐち》としてひらけて来るであろうと思った。こうなれば冑《かぶと》を脱いで彼の男の結論の前に礼拝するのが得策であると感じたので、科学者は十円札を出して叫んだ。
「君、説明書を売ってくれ給え」
「十円ですか、おつりがありませんよ」
「おつりはいらんです。君の持っている説明書をみな下さい」
科学者は説明書の束と、セルロイド製の鵜烏の入ったボール箱とを小脇にかかえると猛然として夜店の人波をつき崩し、真《まっ》しぐらに下宿の自室へとび込んだ。そして机の前に座るや、あらゆる公式と数値とを書いたハンドブックや、計算尺の揃っているのを見極めた上で、説明書を開いた。
「偉大なる結論というものは、大約《おおむね》短いものだ」
と早くも彼は嘆息した。そして両眼のピントを合わせてその結論を声高らかによみあげた。
「鵜烏の尻に穴をあけ糸を結び、他の一端を泥鰌《どじょう》の首に結びつくるべし。水は底が見えぬよう濁り水とすべし」
科学者には、何のことだか薩張《さっぱ》りわからなかったが、数回反読する事によって、液体の沈降に及ぼす外力が泥鰌であることを了解し過ぎるほど了解した。それから次の説明書をよんでみたが、どれもこれも同じことばかりが書いてあった。科学者は彼の予想のはずれたことを悲しんでしばらくは死んだようになっていた。
しかし兎も角も実験だけはして見ようと思って泥鰌を一匹買って来て、説明書の通りにセルロイドの鵜烏に糸を以て接続し、澄明なる水をたたえた大きいビーカーの中で実験をして見たところ、泥鰌は底に安定して居ず、いつも水中を上へ上ったり宙返りをして下りてきたりする不思議な運動をくりかえすことを発見した。そこへ梯子段をミシミシいわせて上って来た下宿の女将《おかみ》が頓狂な声を張りあげた。
「先生は、鵜烏の水くぐりを夜店でお売りになるのですか」
「ソ、そうじゃない。之を御覧、不思議な総合現象だ。全く新しい実験だ」
「いやですよ、先生。こんなものは、もう三年も前からありますよ、先生」
「……」
女将がズシリズシリと階下《した》へ降りて行ってしまうと、科学者は深い歎息をして、独り言を言った。
「物理《フィジーク》や化学《ケミー》をやっている科学者には、生物学なんてニガテだな」
底本:「海野十三全集 別巻2 日記・書簡・雑纂」三一書房
1993(平成5)年1月31日第1版第1刷発行
初出:「科学画報」誠文堂新光社
1929(昭和4)年8月号
※この作品は初出時に署名「佐野昌一」で発表されたことが、底本の解題に記載されています。
入力:田中哲郎
校正:土屋隆
2005年1月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
終わり
全1ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐野 昌一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング