押しあけた。洋車が二台、梶棒《かじぼう》の根もとのランプを都合四つ明るくきらめかせながら、静かに馬車廻しの植込みをまはつて出て行くところだつた。……ではあの高話しは、車夫が早目に来て退屈まぎれにしてゐた雑談だつたのだ。いやそれよりも僕が思はず自分の眼を疑つたのは、その前の俥《くるま》に乗つてゐるのが、ほとんど紛れもなくあの支那婦人だつたことだ。後の俥は樹立《こだち》の加減で見さだめる暇がなかつたが、まづこのあひだの小間使だつたらしい。とにかく女に違ひなかつた。……」
「そんなに早く、どこへ行つたんだらう」と、Gが暫《しばら》く黙つてゐるので私はきいた。
「あとで時間表を見たら、五時に出る大連行の初発があつた。それに乗ると、大連で乗換へて、奉天発北京行の特急にちやうど間に合ふことも分つた……」
「つまりその女の人は、北京か天津から来てゐたといふわけだね。ところで、その二階の窓から、まるで夜の鳥みたいな声で叫んだといふ人物は、結局だれだつたのだい。」
「知らない。声から判ずると、どうやら男のやうでもあり、また女のやうでもあつた。甲高《かんだか》い叫び声といふものは、その区別がつきにくいものだよ。」
「なるほど。……で君は、別に調べても見なかつたのかい。」
「そんな必要があつたらうか?」とGは反問した。思ひなしか、声が少しとがつてゐた。
「いや失敬々々。……それで君は、その女の人にまたどこかでめぐり会つたのかい。」
「いや、会はなかつた。どこの何者かも、むろん知らない。ただ名前だけは知つてゐる。それは Wei Jolan といふのだ。……あくる日の午後、僕も旅順を立つたが。出発の間ぎはになつて支配人が、忘れてゐた署名を僕にもとめたのだ。その宿帳は大型な薄つぺらなもので、まだ卸《おろ》したてと見え最初のページが出てゐた。その一ばん下のところに、達者な横文字で、はつきり Wei Jolan と書いてあつた。出発はちやんとその日の日附になつてゐた。到着は僕の来た前の日だつた。アドレスは果して天津だつた。」
「なんだつてわざわざ横文字なんかで書いたんだらうな。」
「知らない。たぶん天津や北京あたりには、そんな習慣があるのだらう。国籍は民国人になつてゐたからね。」
「ウェイ・ジョーランか……いい響きだね。漢字ではどう書くのかな。」
「ジョーランは多分、若いといふ字に、蘭だらう。ウェイは、むろん魏だ。」
「え、魏だつて?……あの魏さんの魏かい?」
 返事が絶えた。私はGが闇のなかでうなづいたやうな気配を感じた。そこでやうやく、私は自分の迂闊《うかつ》さに思ひあたつた。
「ああ、さうだつたのか。つい気がつかなかつたよ……」
 私はほかに言ひやうがなかつた。私たちの仲間で、Gと魏怡春の二人がとりわけ親しかつたことを私は思ひだしたのだ。魏がGのすぐ下の妹に恋して、結婚の申込をまでしたといふ噂《うわさ》さへあつたほどである。そのときSなどは可笑《おか》しがつて、面とむかつて魏怡春をからかひなどしたものだつたが、魏さんはもちろん例の飃々《ひょうひょう》とした態度で、かるくあしらつてゐたものだつた。そしてGは?……そのGの胸の中を、私は今頃になつて――そろそろ髪の毛のうすくなつた今頃になつて、夜の鳥の手引きではじめて知つたのである。



底本:「日本幻想文学集成19 神西清」国書刊行会
   1993(平成5)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「神西清全集」文治堂
   1961(昭和36)年発行
初出:「文学界」
   1949(昭和24)年8月発行
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆、小林繁雄、Juki
2008年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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