はざまから、胸にきりきり突刺さつてくる針があつた。
午後はまた博物館へ行つた。昨日みのこした工芸品の蒐集《しゅうしゅう》を、何か腑抜《ふぬ》けたやうな気持で眺めてまはつた。まあ雍正《ようせい》だの李朝《りちょう》だの青花《せいか》だのといふ類《たぐ》ひだつたが、なかに不思議なものがあつた。陳列棚一ぱいぎつしりつまつた鼻煙壺のコレクションだ。鼻煙壺といふから、まあ嗅《かぎ》タバコの入れ物だらう。その香水|壜《びん》ほどの可愛《かわ》いらしいやつが、色|玻璃《はり》だの玉石だの白磁だの、稀《まれ》には堆朱《ついしゅ》だのの肌をきらめかせながら、ざつと二三百ほども並んでゐるのだ。これには呆《あき》れたね。おそらく乾隆康煕《けんりゅうこうき》のころの宮女なんかが使つたものだらう。つい楽しくなつて眺めてゐるうち、僕はふつと例のライラック夫人を思ひだした。いや、つまらん聯想《れんそう》のいたづらだが、満洲に渡つて七年、僕は正直のところあれだけの美人にはついぞお目にかからなかつたやうな気がする。……
★
Gは言葉を切つた。しばらく黙つてゐたが、やがてライターをつけた。タバコを吸ひつける束《つか》のま、Gの横顔が闇の中にうかんでゐた。どうやら笑ひを含んでゐるらしかつたが、その性質が突きとめられないうちにライターは消えた、私は無言だつた。
「僕の話は、まあこれでお仕舞なんだが」と、やがてGは言つた。――「もつとも、もし君がまだ眠気《ねむけ》がささないといふのなら、もう一つ二つ蛇足を添へてもいいがね。」
私が「ああ」と答へると、Gは時どきタバコの火で横顔をぼんやり浮き出させながら、次のやうな話をした。
「その真夜中のことだ。僕はがやがやいふ人声で目が覚めた。じつと聞いてゐると、どうやらそれはすぐ下の玄関先でしてゐるらしい。人数は二人らしく、あたり憚《はば》からぬ高声で何やら口論してゐる。乱暴な支那語で、もちろん中身はわからない。しばらく我慢してゐたが、やがてマッチをすつて時計を見た。四時だつた。だんだん聞くうちに、べつに喧嘩《けんか》でもないらしいことが分つた。ものの十五分も僕はそのまま横になつてゐたらうか。突然、どこか二階の窓がガタリとあいて、いきなり「ギギッ」と叫んだ者がある。僕は思はず跳ね起きた。一昨日の晩の、あの夜鳥の叫びにそつくりだつたのだ。僕は窓を押しあけた。洋車が二台、梶棒《かじぼう》の根もとのランプを都合四つ明るくきらめかせながら、静かに馬車廻しの植込みをまはつて出て行くところだつた。……ではあの高話しは、車夫が早目に来て退屈まぎれにしてゐた雑談だつたのだ。いやそれよりも僕が思はず自分の眼を疑つたのは、その前の俥《くるま》に乗つてゐるのが、ほとんど紛れもなくあの支那婦人だつたことだ。後の俥は樹立《こだち》の加減で見さだめる暇がなかつたが、まづこのあひだの小間使だつたらしい。とにかく女に違ひなかつた。……」
「そんなに早く、どこへ行つたんだらう」と、Gが暫《しばら》く黙つてゐるので私はきいた。
「あとで時間表を見たら、五時に出る大連行の初発があつた。それに乗ると、大連で乗換へて、奉天発北京行の特急にちやうど間に合ふことも分つた……」
「つまりその女の人は、北京か天津から来てゐたといふわけだね。ところで、その二階の窓から、まるで夜の鳥みたいな声で叫んだといふ人物は、結局だれだつたのだい。」
「知らない。声から判ずると、どうやら男のやうでもあり、また女のやうでもあつた。甲高《かんだか》い叫び声といふものは、その区別がつきにくいものだよ。」
「なるほど。……で君は、別に調べても見なかつたのかい。」
「そんな必要があつたらうか?」とGは反問した。思ひなしか、声が少しとがつてゐた。
「いや失敬々々。……それで君は、その女の人にまたどこかでめぐり会つたのかい。」
「いや、会はなかつた。どこの何者かも、むろん知らない。ただ名前だけは知つてゐる。それは Wei Jolan といふのだ。……あくる日の午後、僕も旅順を立つたが。出発の間ぎはになつて支配人が、忘れてゐた署名を僕にもとめたのだ。その宿帳は大型な薄つぺらなもので、まだ卸《おろ》したてと見え最初のページが出てゐた。その一ばん下のところに、達者な横文字で、はつきり Wei Jolan と書いてあつた。出発はちやんとその日の日附になつてゐた。到着は僕の来た前の日だつた。アドレスは果して天津だつた。」
「なんだつてわざわざ横文字なんかで書いたんだらうな。」
「知らない。たぶん天津や北京あたりには、そんな習慣があるのだらう。国籍は民国人になつてゐたからね。」
「ウェイ・ジョーランか……いい響きだね。漢字ではどう書くのかな。」
「ジョーランは多分、若いといふ字に、蘭だらう。ウェ
前へ
次へ
全9ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング