せ、荒野に羊の群を追はせることができた。女性のミイラも二三体あつた。男よりも一段と小柄で、一層しなび疲れてゐるやうに思へた。そのためか恥骨の隆起がするどく目についた。あの下には子宮が枯れ凋《しぼ》んで、まだ残つてゐるだらうか――僕はふつと、そんな妙なことを考へた。多分のこつてゐるだらう――僕は自分に答へた。畏怖《いふ》といつてもいいほどの何かみづみづしい感動だつた。僕は情慾の脈うちを感じた。そればかりか、からだの一部にひそかな充血をさへおぼえた。
彼らはひつそりと横たはつてゐた。もし小声で呼びかけたら、千三百年のヴェールを払ひのけて、むつくり起きあがつて来さうな気がした。それはまつたく確実なことのやうに思はれた。そんなむくろの群を、いつのまに西へ廻つたのか、まるで落日のやうに赤ちやけた反射光が、静かに照らしてゐた。影が深くなつて、そのためミイラたちは浮き立つやうに見えた。僕は時計を見た。もう三時近かつた。僕はまるで古代の重みから脱《のが》れでもするやうに、急ぎ足で外へでた。そして眩《まぶ》しいほど白い、ひろびろした街路へ出ると、ほつと大きな息をついた。アカシヤの並木がかすかにそよいでゐた。
ホテルに帰つてからも、僕はまだ何か幻にうかされてゐるやうな気がした。それはもう、感動といふよりは疲労のせゐだつたらう。何しろ昼飯もわすれて、五時間ちかくガラス棚を覗《のぞ》き廻つてゐたのだからね。僕は大急ぎでトーストと珈琲《コーヒー》をたのむと、誰もゐないサロンで満洲日報を読みはじめた。なるべく早く現実へもどる必要を感じたからだ。景気のいい戦争記事が、大きな活字でべたべた並べ立ててあつた。だがどれを読んでも空々しい感じしかしなかつた。さうだ、一刻も早く北京へ――そんな声が、心の隅でささやいてゐた。それも早ければ早いほどいい。一日おくれればそれだけ、僕の求めるものが失はれて行くやうな気がした。僕を蘇生《そせい》させてくれるエレクシールが、どしどし減つて行くやうな気がした。僕は危ふく大連へ電話を申込まうとさへした。だが例の先輩がまだ帰任してゐないことは明らかだつた。僕はしぶしぶ諦《あき》らめた。
だが、そんな風にふらふらしてゐた僕を、すばやく現実へ引きもどしてくれるものが、案外手ぢかな所から現はれた。はじめは小刻みな沓《くつ》音だつた。それが二階から下りて来たのだ。敷物が薄いからよく響く。下りきると、急ぎ足と言つていいほどの足どりで帳場の前を横ぎり、まつすぐこつちへ向つて来た。ライラック色の支那《しな》服をきた脊《せ》の高い女だつた。廊下のまん中で立ちどまると、いきなりこつちへ横を見せて、奥の食堂の方を透かすやうに見た。ほとんど肩すれすれまで、むきだしになつてゐる豊かな二の腕が、蝋《ろう》色に汗ばんで、どうやら胸をはずませてゐるらしい。一二歩、食堂の方へ行きかけたがやめて今度はキッとこつちを見た。もし僕が新聞を楯《たて》にしてゐるのでなかつたら、おそらく眼と眼がぶつかつたに相違ない。そして僕は何かしら声を立てたにちがひない。あの女だ――と僕は咄嗟《とっさ》に思つたからだ。が、女は僕に気づかなかつた。瞬間ありありと失望の色を浮べると、長い裾《すそ》を蹴《け》るやうにして姿を消した。例の支那服特有の裾の裂け目から、きりりと締つたふくらはぎが、一度二度ひらめいた。臙脂《えんじ》色の小さな沓《くつ》もちらりと見えたやうだ。そのどつちも僕は見覚えがあつた。
僕は耳を澄ました。沓音はポーチの敷石にひびき返つて、外へ出ていつたらしい。暫《しばら》くすると洋車の出て行くらしい軋《きし》りがかすかにした。
ところで君は、一体その女は僕にとつて何者なのかと、いささか好奇心をもやしてゐるかも知れないね。もしさうだつたら、なんとも申訳ない次第だ。現実はあひにくと、小説ほど都合よくできてはゐないからね。実をいふと僕はその女について、ほとんど知つてゐることはないんだよ。一体あれは何者だつたらうと、未だに時どき思ひだすぐらゐのところさ。
さうだ、どうせここまで話したら、はつきり言つてしまはう。僕はその女に、三昼夜半ほど前に、たつた一度会つたことがあるだけだつた。会つたといつても、安心したまへ、汽車の中でのことだ。僕はそれまで勤めてゐた民生部を、大体やめる決心がつくと、辞表を懇意な上役にあづけて、新京を去つて奉天《ほうてん》へ行つた。二人ほど別れを告げたい友達がゐたものでね。二日ほどして、大連行きの朝の急行に乗りこむと、案内されたコンパートメントは僕一人だつたのを幸ひ、発車するかしないうちにうとうとしはじめた。しばらくして僕はボーイに揺り起された。席がなくつて困つてゐる婦人がある。少々ゆづつてあげてくれないか――といふのだ。コンパートメントは四人はたつぷり掛けられ
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