つもりだつた。あひにくその人は天津《てんしん》へ出張中で、あと四五日しないと帰つて来ないといふことだつた。大連は二度目だつたが、どうも好きになれない町だ。星ヶ浦に泊ることにしたが、どうもそこも、安手のブルジョア趣味で僕を落着かせない。白状すると、僕はその頃ちよつとばかりノスタルジヤにやられてゐたのかも知れなかつた。何しろ内地通ひの便船が、つい目と鼻の先で煙を吐いてゐるのだからね。
 そこでホテルの支配人に、どこか静かな場所はないかと相談を持ちかけてみると、旅順《りょじゅん》の町はづれにある黄金台ホテルといふのを教へてくれた。もつともこんな時世だし、避暑のシーズンも過ぎたしするので、休業してゐるかも知れない……といふ話だ。電話で連絡してみると、あと十日ぐらゐで閉めるところだといふ。なるほどもう九月も中旬にかかつてゐた。僕は早速トランク一つぶらさげて出かけた。
 些《いささ》か不安な気持もあつた。旅順といへば、小さい時から植ゑつけられてゐる先入主があつたからね。つい血なまぐさい、かさかさした土地を想像しがちだつた。だが行つてみて、僕の想像はきれいに裏ぎられた。青い小さな湾をひつそり抱いてゐるやうな町だつた。海岸通りのアカシヤの並木が美しかつた。
 黄金台といふのは、湾口を東から扼《やく》してゐる岬の名だ。ホテルはその岬の裏側にあつた。市街から洋車でものの二十分もかからうかといふ松林のなかに、置き忘れられたやうに立つてゐた。バンガロー風のポーチに立つて、二三べん大きな声で呼んでみても暫《しばら》くは誰も出て来ない。そんなホテルだつた。
 泊り客はどうやらゐないらしかつた。いや第一、使用人もゐるのかゐないのか分らぬほどだつた。ポーチに出て来たのも若い支配人自身なら、二階の部屋へ案内してくれたのも同じ彼だつた。閑静を通りこして、むしろ無人に近い。僕はちよつと狐《きつね》につままれたやうな気がしたね。
 下のサロンで、支配人が手づから運んで来てくれたお茶を飲んでから、僕は海岸へ出てみた。ちよつと七里ヶ浜を思はせるやうな荒れさびた浜だつた。薄ぐもりの空の下で、黄海の波が鉛《なまり》いろにうねつてゐた。人つ子ひとりゐない。ペンキの褪《あ》せた海水小屋がぽつりぽつりと立つてゐる。みんな鍵がかけてある。僕はそれを一つ一つ覗《のぞ》いて廻つた。何か風俗のきれはしでも落ちてゐはしまいかと思
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