夢がたり
TO, CHEVO NE BYLO
ガルシン Vsevolod Mikhailvich Garshin
神西清訳

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)禾堆《いなむら》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1−8−75]
−−

 六月のある素晴らしい日のこと――ただし素晴らしいと月並みなお断りをしたのは、列氏で二十八度という温度だったからですが――その素晴らしい六月のある午後のこと、どこもかしこもきびしい暑さでした。なかでもつい四五日まえに刈り入れの済んだ乾草が、禾堆《いなむら》をなして並んでいる庭の草場は、またひとしおの暑さでありました。というのはその場所が、茂りに茂った桜畑で、風上をさえぎられていたからなのです。生きとし生けるものは、たいてい寝入っておりました。人間どもはどっさり御飯をつめ込んで、昼寝の夢をむさぼっていましたし、小鳥も鳴りをひそめていますし、昆虫《こんちゅう》たちもたいていは日ざしを避けて、どこかへもぐり込んでいたほどでした。家畜のことは申すまでもありません。大きな家畜も小さな家畜も、みんな軒下《のきした》にかくれておりました。犬はどうかと言いますと、穀倉の下に穴を掘って、その中に寝そべって、半ば眼を閉じたまんま、一尺あまりもありそうな桃色の舌を吐きだして、しきりにハアハアいっておりました。ときどき犬は、このうだるような暑気のもよおす物憂さにたえかねてでありましょう、のどの奥からキューンと妙な音が出るほどの、大きなあくびをするのでありました。豚はどうかといいますと、お母さんが総勢すぐって十三匹の子豚を引きつれて、小川の岸へおりて行って、ぶくぶくした黒い泥んこの中にうずくまってしまいましたので、泥の中から見えるものといったら、ブウブウグウグウ鳴っている小さな穴が二つずつあいている豚の鼻づらと、泥んこになった細長い背中と、それにたれ下がっているみっともないほど大きな耳だけでありました。ただ鶏だけは、暑さにもめげずに、台所の登り口の下のからからにかわいた地面を、しきりにあしでほじくりながら、どうにか時間つぶしをしていましたけれど、そこにはもう鶏たちも先刻ご承知のとおり、穀粒ひとつだって残ってはいないのです。とは知りながらも、雄鶏《おんどり》はときどき何か癪《しゃく》にさわることがあると見えます。その証拠には、雄鶏はときどき間の抜けた様子をして、のどもさけよと叫び立てるのでした、――『結構《ケッコウ》ドコロジャアリャシナーイ※[#感嘆符二つ、1−8−75]』
 おや、いつの間にか私たちは、あの一ばん暑さのきびしい草場を離れて遠くへ来てしまいましたが、実はその草場には、昼寝もせずにいるお歴々が、車座になってすわっていたのでした。といってもみんながみんなすわっていたわけではありません。たとえば年寄りの栗毛《くりげ》などは、馭者《ぎょしゃ》のアントンのむちを横っ腹へ食らいはしまいかとたえずびくびくしながら、乾草の山をかき分けているのですが、これは馬のことですから、もともとすわるなんて芸当はできないのです。またゆくゆくは何かの蝶《ちょう》になる毛虫も、やはりすわっているのではなく、まあ腹んばいになっている方でした。でも言葉の穿鑿《せんさく》なんぞはどうでもよろしい。とにかく桜の木陰に、小人数ではありますが、たいへんまじめな会合が開かれていたのでありました。かたつむりもいれば、くそ虫もいます。とかげもいれば、いま言った毛虫もいます。こおろぎも駆けつけて来ました。かたわらには年寄りの栗毛までがたたずんで、ねずみ色の耳毛が中から勢いよくはえている大きな片耳を、一座の方へそばだてながら、連中の演説をじっと聞いておりました。その背中には、はえが二匹とまっておりました。
 さて一座の面々は、言葉こそ鄭重ではありましたが、それでもかなり活気のある議論を戦わしておりました。かつまた、こうした場合のご多聞に漏れず、だれ一人として相手の意見に賛成するものはありませんでした。てんでに自分たち独特の考え方や気質によって、勝手な熱をあげていたからであります。
「私に言わせると」と、くそ虫が申しました、「いやしくも道をわきまえた動物は、まず何よりも子孫のことに思いをいたすべきです。生活は来たるべき世代のための労働なのである。こうした自覚をいだいて、大自然がおのれに課し与えた義務を果たそうとする者こそ、確乎《かっこ》たる地盤のうえに立つ者と言うべきであります。けだし彼はおのれの分《ぶん》を知るがゆえに、たとえ何事が起ころうと、彼は責任を問わるべきではないからであります。この私をご覧なさい、私ほどよく働く者がほかにありますか? そもそもだれが日がな一日、息をつく暇もなしに、あのように重い団子を――すなわち、やがて生まるべき私同様のくそ虫たちが、すくすくと生長しうるようにとの大目的をもって、くそを材料に私がかくも手ぎわよく作りあげた団子を、せっせところがしているでありましょうか? しかもその代わり私は、やがてこの世に新しいくそ虫が生まれ出るとき、『しかり、わが輩はなしうるところのものを、またなすべかりしところのものを、ことごとくなしとげたのだ』と私が言うであろうように、かくも平らかなる良心をもって、また一点の曇りなき衷情をもって、言い切れる者が他にあろうとも思わないのであります。諸君、労働とは実にかくのごときものであります!」
「おっと兄弟、そう労働労働と大きな口をめったにきいてはもらいますまいぜ!」と、ちょうどくそ虫の演説のとき、丸太ほどもある枯れ草の茎の切れっぱしを、暑さにもめげず引きずっていた一匹の蟻《あり》が、そう申しました。蟻はちょっと立ち止まって、四本の後脚で地面にすわり、やつれた顔にしたたる汗を、二本の前脚でふきました。――「僕だって、そら、この通り労働はするんだぜ。それもお前さんなんかより働きは激しいくらいだ! それにお前さんは自分のために働くんだろう、でないまでも結局はお前さんの子孫のためだろう。ところがみんながみんな、そんな果報者じゃないんだぜ。……物はためしだ、まあお前さんもこの僕みたいに、お上《かみ》の御用で丸太ん棒を引きずって見るがいいや。こんな暑さの中でまで、精も根もつき果てるほど働いていながら、さてどこのどいつが僕をこうまでこき使うのやら、僕は自分でも知らないのさ。いくら働いてやったところで、ありがとう一つ言っちゃもらえないんだ。僕たち不仕合わせな働き蟻というものは、みんなこうして働いてるんだが、僕たちの暮らしがそれで少しでもよくなるかい? みんな背負って生まれた運命なのさ!……」
「くそ虫さん、あんたみたいに人生をみちゃ、あんまり無味乾燥というものですよ。だが蟻さんも、人生をあまり暗く考え過ぎますねえ」と、こおろぎが二人に反対しました、「そんなもんじゃありませんよ、くそ虫さん、僕はこうしてコロコロ啼《な》いたり、はね回ったりするのが大好きですが、それでいっこう平気ですよ! べつに気がとがめたりはしませんよ! それにまたあなたは、さっきとかげの奥さんが提出なすった問題に、ちっとも触れなかったじゃありませんか。奥さんは、『世界とは何でしょう』とお尋ねだったのですよ。だのに自分のお団子の話をするなんて、それじゃむしろ失礼と言うもんじゃありませんか。世界とは――世界というものは、僕に言わせると、こうして僕らのために若草があり、太陽があり、そよそよ風がある以上、すこぶる結構なものだと思いますね。それにまた実に大きなものですよ! あんたなどは、こうしてこの木とあの木のあいだを天地として暮らしておられるから、世界がどれほど大きなものかということについては、とても理解が行くはずはありませんよ。僕はよく耕地へ行って見ますがね、そこでときどき、思いっきり高くとびあがって見るんです。そして正直な話が、とても高いとこまでとびあがれるんですがね、その高みから見渡すと、つくづく世界には際限がないと思いますねえ。」
「まったくその通りじゃ」と、分別顔で栗毛の馬が相槌《あいづち》をうちました、「とはいうもののお前さんたちはみんな、わしがこの歳《とし》までに見て来たものの、百に一つも見られはせんのじゃよ。お気の毒じゃがお前さんたちには、一露里がどんなものじゃやら見当がつくまい。……ここから一露里行ったところには、ルパーレフカという村がある。わしは毎日その村へ水をくみに、たるを背負って出かけるのだ。だがあの村じゃ一ぺんだって飼料《かいば》をくれたことがないな。それからまた別の方角には、エフィーモフカだのキスリャーコフカだのという村がある。このあとの方には教会というものがあってな、鐘がころんころんと鳴っておる。その先はスヴャト・トローイツコエ村、またその先はボゴヤーヴレンスクじゃ。ボゴヤーヴレンスクでは、行くたんびに乾草をくれるが、あすこの乾草は風味がよくない。だがほれ、ニコラーエフへ行くと――これはここから二十八露里もある町じゃがな、あすこの乾草はなかなかええし、それに燕麦《えんばく》の御馳走《ごちそう》も出るのじゃ。ただどうもあそこへ行くのがいやでならんというのは、あの町へ行くときは旦那を馬車に乗っけて行くのでな、馭者《ぎょしゃ》というものが旦那の言いつけでわしらを駆り立てるのじゃ。いやその馭者の振りおろすむちの痛いのなんのって……。まだそのほかに、アレクサンドロフカ、ベロジョールカなどいう村もあるし、ヘルソーンというのもある――これも町じゃ。……じゃがせっかくこうして話して聞かせても、お前がたにはさっぱりわけがわかるまいて!……世界というものはまずこうした物じゃ。それで全部とは行かぬにしても、まあま、とにかく大部分じゃよ。」
 そう言って栗毛は口をつぐみましたが、下くちびるだけはまだもぐもぐと動いていて、まるで何かつぶやいているようでありました。それは寄る年波のせいだったのです。何しろもう十七歳でしたし、馬の十七といえば人間の七十七も同じことですから。
「せっかくの馬さんのお話ですが、私にはなんのことやらちんぷんかんぷんですわ。それにまた正直のところ、別にわかりたいとも思いませんの」とかたつむりが申しました、「私はごぼうさえあれば結構なんですが、ありがたいことにごぼうは充分ありますのよ。だってこれでもう四日もはっていますけど、まだ頂ける葉が尽きはいたしませんものね。このごぼうの向こうにはまたごぼうがはえていますわ。そのごぼうのうえには、きっとまたかたつむりがとまっているんでしょうよ。私の申しあげたいのはこれだけですわ。上へだって下へだって、はねることなんかいっさい無用ですわ――そんな事はみんな、くだらない、いいかげんななそっぱちですわ。お行儀よく葉のうえにすわって、その葉を食べていればいいんですわ。ああ、はうのさえ面倒でなかったら、とっくにあなたがたのところは御免をこうむっているのにねえ。そんなお話を伺っていると頭痛がして来ますわ。頭痛がして来るだけですわ。」
「いや、お話中ですが、それはまたなぜですね?」と、こおろぎがさえぎりました、「しゃべるということはことにそれが永遠だとかなんだとか、まあそういったたぐいの立派な題目に関する場合、じつに愉快なことじゃありませんか。そりゃもちろん、世帯じみた生まれつきというものもあります。その連中はただもう、いかにしてお腹《なか》をくちくするかということばかり、くよくよしているんです。たとえばあなただとか、またそこにおられるあでやかな毛虫さんみたいにね。……」
「あら、いけませんわ、私をおかまいになっちゃいけませんわ。お願いですからそっとして置いてちょうだい、かまわないでちょうだい!」と、毛虫は哀れっぽい声で叫びました、「私がこうして葉っぱをいただくのは、未来の生活のためなんですもの。ただただ未来の生活のためなんですもの。」
「未来の生活のため
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング