飜訳の生理・心理
神西清

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)飜訳《ほんやく》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#ローマ数字9、1−13−29]
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 飜訳《ほんやく》について何か書けということだが、僕の飜訳は専門ではなくて物好きの方らしいから、別にとり立てて主義主張のあるわけでもない。ただ近ごろはやりの単色版的飜訳ということでちょっと感じたことがあるので、それでも書いて見よう。
 単色版的飜訳というのは、いうまでもなく野上豊一郎氏の提唱にかかるもので、「原物の意味だけを理知的に伝える」ことだけで満足しようとする、いわば合理主義的な行き方の名称である。ところでこの説の設定しようとする飜訳の限界はたしかに一応は正しいものだと思う。この説の聡明《そうめい》さもまずもって認められて然《しか》るべきかと思われる。ただその聡明さは、うちに無限の矛盾を含みながら保たれている調和――という気味を、多分に含んでいることを免れないようである。言いかえると、この説の誤解され易い点は、それが一見したところ、飜訳の生理とか心理とか云《い》ったものから、論理面だけを単純に切取《きりと》り了《おお》せているように見えるところにあると思う。
 この単色版説の恰好《かっこう》なよりどころとして、普通もちだされるのは鴎外の飜訳である。だが世の中にこれほど滑稽な勘違いはない。かえって鴎外のつかう語彙《ごい》くらい色感の強いものは、ほかの文学者には見当らぬほどである。鴎外の文章は、意味と色とトオンとのつながりに慎重きわまる吟味を重ねた挙句に選び当てられた、的確きわまる語彙を素材とした揺るぎない構築物なのである。一たい誰にあの『魚玄機』が書けるというのであろうか。一たい誰に『即興詩人』が書ける[#「書ける」に傍点]というのだろうか。いや、論者の考えているのは鴎外の晩年ちかい枯淡な味わいの訳文なのであろうが、その淡々として水のごとき行文を支えているものはやはり、昔の鴎外の厳正な風格にほかならない。あの平明な口語文はやはり彼独特のもので、今日《こんにち》のわれわれの到底使いこなし得るものではない。その意味であれは紛れもなく一種の文語なのである。これほどの見分けもつかぬような人は、文学なんかお廃《や》めなさいと申しあげるのほかはないのである。
 それはそうとして、飜訳の生理というと、まず論理を生かす道としての表現のことが考えられる。この表現上の差別という厄介千万なものをなくすためには、知性の改造という非常に遥《はるか》なイメージを描かなければならない。野上氏もこの点には触れておられるし、それが晩《おそ》かれ早かれ克服されなければならない懸案であることには僕も至極同感なのだが、仮に何時《いつ》の日かこの遠いイメージが実現されたにしても、案外ごく限られた可能性をしか齎《もたら》しては呉《く》れそうもない――という気が強くするのである。
 昨年秋のジイドの日記のなかに次のような一節があった。それは、「思いつくままに書き下す」というスタンダールの秘訣を讃《たた》え、それとはおよそ対蹠的な例として、飜訳という仕事を挙げたものであった。他人の思想を扱うのだから、その思想を暖めたり、包装したりすること、従って言葉の選択や表現が問題になって来ると言い、その結果、「何を言うにも言いかたが幾とおりもあり、そのうち正しい言い方は唯一つであると信じるようになる。で内容と形式とか、感情や思想とその表現とか、元来一である筈《はず》のものを別々に考える悪習を生ずる」と言うのであった。

 これは飜訳という不自然な労働が、人間の思考におよぼす害毒を、ずばりと言い当てたことばで、多少とも良心的に飜訳の道に志すほどの人にとって、有益な警戒信号たるを失わない。だが差当っての問題は、この言葉の描き出しているもう一面の苦《に》がい真理である。その面は、かりに知性の西欧化が実現されようとも、必ずしもそれで飜訳の道は、のんきに葉巻でもふかして行けるほど坦々《たんたん》たる道にはなるまいという真理を、悲しいかな物語っているのである。そこにはまだまだ同義・等量・等値などという有機的な諸関係のあいだに夥《おびただ》しい未解決の問題が残されるであろうこと、したがって単なる合理主義的な行き方だけで勝利の日を期待しても、おそらくその日は必ずしも近くはあるまいということを暗示している。
 それは主として飜訳の生理の問題なのだが、この生理に加えてもう一つ厄介な重荷は、飜訳の心理ともいうべきものであろう。それは言ってみれば次のような性質のものだ。――およそ多少とも良心的な飜訳者が、仕事に当ってまず用意する心構えは、自己を棄てるということの他の何物でもあるまい。飜訳者は原物の意味や思想に没入しようとする一方、同時にまた原作者自身の創作を周囲から支えていた情感や気分にまでも自己を転化させようという、まことに不思議な欲望に誘われるものである。それは極端にいうと、観念として抽象し得るもののみにとどまらず、原作者の体温とでもいった肉体的な要素にまでも迫ろうとする欲望である。
 もし完全な飜訳者というものがあるとすれば、そのようにして幻想された体感が、一々原作者のそれに合致するという、真にあり得べからざる玄妙の境に達し得る人でなければなるまいが、勿論《もちろん》そんなことがあっては堪《た》まらない。それは全く同じ指紋の人が二人いるみたいなものである。しかも大切なことは、この自己転化という危険な誘惑に憑《つ》かれない限り、飜訳という形象再生の仕事が到底成り立たないばかりか、飜訳者という生ける人間が第一成りたち得ないという事実なのである。
 合理主義的な行き方が、飜訳者から自己の情緒本位の創意を剥奪《はくだつ》せよ、と主張するのはいかにも正しい。ただ僕としてはそれが行き過ぎて、序《つい》でに今いった心理的にも原作者にできるだけ近づこうと欲求する、その欲望の自由をも奪うようになることを恐れたいのである。それは飜訳者という奇体な生き物にとっての残された唯一の自由であり、創意なのだから、できるだけ尊重してやりたいものと思う。
 飜訳という問題はもともと生木のようにくすぶるのが運命である。もともと自然の法則に反して燃えることを強制されているからである。そこで単色版的飜訳という頗《すこぶ》る便利な諦観《ていかん》が、原則として飜訳の救いとなって現われるということになる。しかしこれが、単に飜訳者のための救いであるだけでは何の意味もない。読者のための救いであっても詰まらない。それは飜訳そのものの救いでなければならず、そのためにはやはり、飜訳の論理は、生理や心理を道伴《みちづ》れに永遠に苦しんで行くほかはないのである。
[#地から2字上げ]17.※[#ローマ数字9、1−13−29].1938
[#地から1字上げ](昭和十三年九月十九日、「帝国大学新聞」)



底本:「大尉の娘」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年5月2日第1刷発行
   2006(平成18)年3月16日改訂第1刷発行
底本の親本:「神西清全集 第六巻」文治堂書店
   1976(昭和51)年発行
初出:「帝国大学新聞」
   1938(昭和13)年9月19日
入力:佐野良二
校正:noriko saito
2008年5月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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