まず用意する心構えは、自己を棄てるということの他の何物でもあるまい。飜訳者は原物の意味や思想に没入しようとする一方、同時にまた原作者自身の創作を周囲から支えていた情感や気分にまでも自己を転化させようという、まことに不思議な欲望に誘われるものである。それは極端にいうと、観念として抽象し得るもののみにとどまらず、原作者の体温とでもいった肉体的な要素にまでも迫ろうとする欲望である。
 もし完全な飜訳者というものがあるとすれば、そのようにして幻想された体感が、一々原作者のそれに合致するという、真にあり得べからざる玄妙の境に達し得る人でなければなるまいが、勿論《もちろん》そんなことがあっては堪《た》まらない。それは全く同じ指紋の人が二人いるみたいなものである。しかも大切なことは、この自己転化という危険な誘惑に憑《つ》かれない限り、飜訳という形象再生の仕事が到底成り立たないばかりか、飜訳者という生ける人間が第一成りたち得ないという事実なのである。
 合理主義的な行き方が、飜訳者から自己の情緒本位の創意を剥奪《はくだつ》せよ、と主張するのはいかにも正しい。ただ僕としてはそれが行き過ぎて、序《つい》でに今いった心理的にも原作者にできるだけ近づこうと欲求する、その欲望の自由をも奪うようになることを恐れたいのである。それは飜訳者という奇体な生き物にとっての残された唯一の自由であり、創意なのだから、できるだけ尊重してやりたいものと思う。
 飜訳という問題はもともと生木のようにくすぶるのが運命である。もともと自然の法則に反して燃えることを強制されているからである。そこで単色版的飜訳という頗《すこぶ》る便利な諦観《ていかん》が、原則として飜訳の救いとなって現われるということになる。しかしこれが、単に飜訳者のための救いであるだけでは何の意味もない。読者のための救いであっても詰まらない。それは飜訳そのものの救いでなければならず、そのためにはやはり、飜訳の論理は、生理や心理を道伴《みちづ》れに永遠に苦しんで行くほかはないのである。
[#地から2字上げ]17.※[#ローマ数字9、1−13−29].1938
[#地から1字上げ](昭和十三年九月十九日、「帝国大学新聞」)



底本:「大尉の娘」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年5月2日第1刷発行
   2006(平成18)年3月16日改
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