ような人は、文学なんかお廃《や》めなさいと申しあげるのほかはないのである。
それはそうとして、飜訳の生理というと、まず論理を生かす道としての表現のことが考えられる。この表現上の差別という厄介千万なものをなくすためには、知性の改造という非常に遥《はるか》なイメージを描かなければならない。野上氏もこの点には触れておられるし、それが晩《おそ》かれ早かれ克服されなければならない懸案であることには僕も至極同感なのだが、仮に何時《いつ》の日かこの遠いイメージが実現されたにしても、案外ごく限られた可能性をしか齎《もたら》しては呉《く》れそうもない――という気が強くするのである。
昨年秋のジイドの日記のなかに次のような一節があった。それは、「思いつくままに書き下す」というスタンダールの秘訣を讃《たた》え、それとはおよそ対蹠的な例として、飜訳という仕事を挙げたものであった。他人の思想を扱うのだから、その思想を暖めたり、包装したりすること、従って言葉の選択や表現が問題になって来ると言い、その結果、「何を言うにも言いかたが幾とおりもあり、そのうち正しい言い方は唯一つであると信じるようになる。で内容と形式とか、感情や思想とその表現とか、元来一である筈《はず》のものを別々に考える悪習を生ずる」と言うのであった。
これは飜訳という不自然な労働が、人間の思考におよぼす害毒を、ずばりと言い当てたことばで、多少とも良心的に飜訳の道に志すほどの人にとって、有益な警戒信号たるを失わない。だが差当っての問題は、この言葉の描き出しているもう一面の苦《に》がい真理である。その面は、かりに知性の西欧化が実現されようとも、必ずしもそれで飜訳の道は、のんきに葉巻でもふかして行けるほど坦々《たんたん》たる道にはなるまいという真理を、悲しいかな物語っているのである。そこにはまだまだ同義・等量・等値などという有機的な諸関係のあいだに夥《おびただ》しい未解決の問題が残されるであろうこと、したがって単なる合理主義的な行き方だけで勝利の日を期待しても、おそらくその日は必ずしも近くはあるまいということを暗示している。
それは主として飜訳の生理の問題なのだが、この生理に加えてもう一つ厄介な重荷は、飜訳の心理ともいうべきものであろう。それは言ってみれば次のような性質のものだ。――およそ多少とも良心的な飜訳者が、仕事に当って
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