のだから困るのである。徹夜の時間の大半は、今いった不自然感、不合理感との組打ちのうちに、ただ空《むな》しく流れているだけなのだから。こうなるともう何のことはない、一種の脅迫観念だ。
世間に、横のものを縦に直す、という憎まれ口がある。けだし飜訳という仕事のからくりをずばりと突いた名言である。なるほど飜訳はつまるところ、It is a book をIt is a bookと書きかえるだけの仕事に過ぎないかも知れない。至極ごもっともな話ではあるが、どうやらわれわれは、この名言の適切さにいい気持になった余り、その底にひそんでいる重大な悲劇に気がつかない傾向があるようだ。横のものを縦に直す、ということが、実は、横坐標に盛られた或る数値を縦坐標に盛り直すという飛んでもない奇術であることに、存外気がつかずにいるわけである。
Traduttore, traditore. というイタリアの古い警句があるそうだ。その意味は、飜訳者は裏切り者、ということだ。ところが、そう日本語に直したのでは、やはり申訳《もうしわけ》のない裏切りの罪を犯すことになる。なぜなら原句は trad を頭韻とし、tore を脚韻とする大そう粋《いき》な駄じゃれだからである。まあ一種の語呂合せみたいなものであり、それを一概に「飜訳者は裏切り者」と心得て畏《おそ》れ謹《つつ》しんだのでは、この名句の発案者の折角の笑いが消し飛んでしまう。含蓄されている洒脱味が失せてしまう。いささか苦しいが、飜訳者《ホンヤクシャ》は叛逆者《ハンギャクシャ》とでも言い換えれば、少しは洒落のひびきが通じようというものである。ただしそうすると、下の句が耳遠くなって、意味の通りが悪くなる。飜訳という仕事は畢竟《ひっきょう》するに、こっちを立てれば向こうが立たぬ千番に一番の兼合いと心得れば、まず間違いはなさそうだ。
チェーホフも同じような毒舌を「手帳」のなかで書いている。それは「ペレヴォッチクはポドリャッチクの誤植」というので、こう仮名で書いてみても、頭韻と脚韻の関係ははっきり分るだろう。意味は「訳者とあるは請負師の誤植」だが、なるほどそれで一応の意味は通じても、肝腎の洒落の方はさっぱりぴんと来ないことになる。これなど極端な例のようだが、この種の困難は単に詩歌の飜訳の場合ばかりでなく、およそ飜訳という仕事があり続けるかぎり、ぜひとも背負わな
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