が》つてをります。当夜は風もなく、更にはまた谷間のことでもあり、火の廻りはもどかしい程に遅く感ぜられます。そのうちに食堂《じきどう》、つづいて講堂も焼け落ちたらしく、火の手が次第に仏殿に迫つて参ります頃には、そこらにちらほら雑兵《ぞうひょう》どもの姿も赤黒く照らし出されて参ります。どうやら西方の大内《おおうち》勢らしく、聞き馴《な》れぬ言葉|訛《なま》りが耳につきます。そのやうな細かしい事にまで気がつくやうになりましたのも、度重なる兵火をくぐつて参りました功徳《くどく》でもございませうか。やがて仏殿にも廻廊づたひにたうとう燃え移ります。それとともに、大して広からぬ境内《けいだい》のことゆゑ、鐘楼《しゅろう》も浴室も、南|麓《ろく》の寿光院も、一ときに明るく照らし出されます。こちら側の経蔵もやはり同じことであつたのでございませう、松明《たいまつ》を振りかざした四五人の雑兵《ぞうひょう》が一散に馳《は》せ寄つて参りました。その出会ひがしらに、思ひもかけぬ経蔵の裏の闇から、僧形《そうぎょう》の人の姿が現はれて、妙に鷹揚《おうよう》な太刀《たち》づかひで先登の者を斬《き》つて棄《す》てました。
前へ 次へ
全65ページ中60ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング