》にて止まりました。さうさう、松王様はその夕刻、おつつけ戌《いぬ》の刻ほどにひよつくりお見えになり、わたくしがお怨《うら》みを申すと、
「なに、ついそこの武者の小路で見張つてをつたよ」と、事もなげに仰《おお》せられました。
その日の焼亡はまことに前代未聞の沙汰《さた》で、下《しも》は二条より上《かみ》は御霊《ごりょう》の辻《つじ》まで、西は大舎人《おおとねり》より東は室町小路を界《さかい》におほよそ百町あまり、公家《くげ》武家の邸《やしき》をはじめ合せて三万余宇が、小半日の間《ま》に灰となり果てたのでございます。さうなりますと町なかで焼け残つてゐる場所とては数へるほどしかございません。お次はそこが火の海と決まつてをりますので、桃花坊も中御門のお宿も最早これまでと思ひ切りその翌《あく》る日には前《さき》の関白様は随心院へ、また東の御方様は鶴姫様ともども光明峰寺へ、それぞれお移し申し上げました。
越えて八月の半ばには等持、誓願の両寺も炎上、いづれも夜火でございます。その十八日には洛中《らくちゅう》の盗賊どもこぞつて終《つい》に南禅寺に火をかけて、かねてより月卿雲客《げっけいうんかく》の移し納めて置かれました七珍財宝を悉《ことごと》く掠《かす》め取つてしまひます。これも夜火でございましたが、粟田《あわた》口の花頂|青蓮院《しょうれんいん》、北は岡崎の元応寺までも延焼いたし、丈余の火柱が赤々と東山《ひがしやま》の空を焦がす有様は凄《すさ》まじくも美麗な眺めでございました。
……ああ、由玄どの、今あなたは眉《まゆ》をお顰《ひそ》めなされましたな。いえ、よく分つてをります、美麗だなどと大それた物の言ひやう、さぞやお耳に障《さわ》りませう。神罰もくだりませう、仏罰《ぶつばち》も当りませう、それもよく心得てをります。けれどこの貞阿は実《じつ》に感じたままをお話しするまででございます。まことに人間の心ほど不思議なものはありませぬ。火をくぐり、血しぶきを見、腐れた屍《しかばね》に胆《きも》を冷やし、人間のする鬼畜《きちく》の業《ごう》を眼《まなこ》にするうち、度胸もついて参ります、捨鉢《すてばち》な荒《すさ》びごころも出て参ります、それとともに、今日は人の身、明日はわが上と、日ごと夜ごとに一身の行末《ゆくすえ》を思ひわび、或ひは儚《はかな》い夢を空だのみにし、或ひは善きにつけ悪《あ》しきにつけ瑞祥《ずいしょう》に胸とどろかせるやうな、片時の落居《らっきょ》のいとまとてない怪しい心のみだれが、いつしかに太い筋綱に縒《よ》り合はさつて、いやいや吾《わ》が身ひとの身なんどは夢幻の池の面《も》にうかぶ束《つか》のまの泡沫《うたかた》にしか過ぎぬ、この怖ろしい乱壊転変《らんえてんぺん》の相《すがた》こそ何かしら新しいものの息吹《いぶ》き、すがすがしい朝を前触れる浄《きよ》めの嵐なのではあるまいかと、わたくしごとの境涯を離れて広々と世を見はるかす健気《けなげ》な覚悟も湧《わ》いて参ります。旧《ふる》き代の富貴《ふうき》、栄耀《えよう》の日ごとに毀《こぼ》たれ焼かれて参るのを見るにつけ、一掬《いっきく》哀惜の涙を禁《とど》めえぬそのひまには、おのづからこの無慚《むざん》な乱れを統《す》べる底の力が見きはめたい、せめて命のある間にその見知らぬ力の実相をこの眼で見たい、その力のはたらきから新しい美のいのちを汲《く》みとりたい……このやうな大それた身の程しらずの野心も、むくむくと頭をもたげて参ります。一身の浮き沈みを放下《ほうか》して、そのやうな眼《まなこ》であらためて世の様を眺めわたしますと、何かかう暗い塗籠《ぬりごめ》から表へ出た時のやうに眼《まなこ》が冴《さ》え冴《ざ》えとして、あの建武《けんむ》の昔二条河原の落書《らくしょ》とやらに申す下尅上《げこくじょう》する成出者《なりでもの》の姿も、その心根の賤《いや》しさをもつて一概に見どころなき者と貶《おと》しめなみする心持にもなれなくなります。今までは只《ただ》おぞましい怖《おそろ》しいとのみ思つてをりました足軽《あしがる》衆の乱波《らっぱ》も、土一揆《つちいっき》衆の乱妨も檀林巨刹《だんりんきょさつ》の炎上も、おのづと別の眼《まなこ》で眺めるやうになつて参ります。まことに吾《われ》ながら呆《あき》れるやうな心の移り変りでございました。……
その間にも戦さの成行きは日に細川方が振はず、勢《いきおい》を得た山名《やまな》方は九月|朔日《ついたち》つひに土御門万里《つちみかどまで》の小路の三宝院に火をかけて、ここの陣所を奪ひとり、愈※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》戦火は内裏《だいり》にも室町殿にも及ばう勢となりました。その十三日には浄華院の戦さ、守る京極《きょうごく》勢は一たまりもなく責め落され、こ
前へ
次へ
全17ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング