ね》お約束の松王さまばかり、それも室町のあたりは火にはかからぬと思召《おぼしめ》してか、或ひはまた相国寺の西にも東にも火の手の上つてをります有様では、無下《むげ》にその中を抜け出しておいで遊ばすわけにも参らぬものか、一向に姿をお見せになりません。やがてその日も暮れました。夜に入つて風は南に変つたとみえ、百万遍、雲文寺のかたの火焔《かえん》も廬山寺《ろざんじ》あたりの猛火《みょうか》も、次第に南へ延びて参ります。渦巻きあがる炎の末は悉《ことごと》く白い煙と化して棚びき、その白雲の照返《てりかえ》しでお庭先は、夜どほしさながら明方のやうな妙に蒼《あお》ざめた明るさでございます。殊《こと》に凄《すさ》まじいのは真夜中ごろの西のかたの火勢で、北は船岡山《ふなおかやま》から南は二条のあたりまで、一面の火の海となつてをりました。
やうやうにその夜も無事にすぎて、翌《あく》る二十七日には、朝の間のどうやら鬨《とき》の声も小止《おや》みになつたらしい隙《すき》を見計らひ、東の御方は鶴姫さまと御一緒に中御門《なかみかど》へ、若君姫君は九条へと、青侍《あおさぶらい》の御警固で早々にお落し申上げました。やれ一安心と思つたが最後、気疲れが一ときに出まして、合戦の勢《いきおい》がまた盛返《もりかえ》したとの注進も洞《うつ》ろ心に聞きながし、わたくしは薙刀《なぎなた》を杖《つえ》に北の御階《みはし》にどうと腰を据《す》ゑたなり、夕刻まではそのまま動けずにをりました。この日の戦《いくさ》も酉《とり》の終までには片づきまして、その夜は打つて変つてさながら狐《きつね》につままれたやうな静けさ。物見の者の持寄りました注進を編み合はせてみますと、この両日に炎上の仏刹《ぶっさつ》邸宅は、革堂、百万遍、雲文寺をはじめ、浄菩提寺、仏心寺、窪の寺、水落の寺、安居院の花の坊、あるひは洞院《とういん》殿、冷泉《れいぜい》中納言、猪熊《いのくま》殿など、夥《おびただ》しいことでございましたが、民の迷惑も一方ならず、一条大宮裏向ひの酒屋、土倉、小家、民屋はあまさず焼亡いたし、また村雲の橋の北と西とが悉皆《しっかい》焼け滅んだとのことでございます。
さりながらこれはほんの序の口でございました。住むに家なく、口に糊《こ》する糧《かて》もない難民は大路小路に溢《あふ》れてをります。物とり強盗は日ましに繁《しげ》くなつて参ります。かてて加へて諸国より続々と上つてまゐる東西両陣の足軽《あしがる》と申せば、昼は合戦、夜は押込みを習ひとする輩《やから》ばかり、その荒々しい人相といひ下賤《げせん》な言葉つきと云ひ、目にし耳にするだに身の毛がよだつ思ひでございました。さうなりますと最早や戦さなどと申すきれい事ではございません。昼日なかの大路を、大刀《たち》を振りかざし掛声《かけごえ》も猛に、どこやらの邸《やしき》から持ち出したものでございませう、重たげな長櫃《ながびつ》を四五人連れで舁《か》いて渡る足軽の姿などは、一々目にとめてゐる暇《いとま》もなくなります。築地《ついじ》の崩れの陰などでは、抜身《ぬきみ》を片手に女どもをなぐさんでをります浅ましい有様が、ちよつと使に出ましても二つや三つは目につきます。夜は夜で近辺のお屋敷の戸|蔀《しとみ》を蹴破《けやぶ》る物音の、けたたましい叫びと入りまじつて聞えて参ることも、室町あたりでさへ珍らしくはございません。まことにこの世ながらの畜生道《ちくしょうどう》、阿鼻《あび》大城とはこの事でございませう。
そのやうな怖ろしいことが来る日も来る夜も打続いてをりますうち、六月八日には、遂《つい》に一大事となつてしまひました。その午《うま》の刻ばかりに、中御門猪熊の一色《いっしき》殿のお館に、乱妨人が火をかけたのでございます。それのみではございません。近衛《このえ》の町の吉田神主の宅にも物取りどもが火を放つたとやら、忽《たちま》ちに九ヶ所より火の手をあげ、折からの南の大風に煽《あお》られて、上京《かみぎょう》の半ばが程はみるみる紅蓮《ぐれん》地獄となり果てました。火焔《かえん》の近いことは五月の折りの段ではなく、吹きまく風に一時は桃花坊のあたりも煙をかぶる仕儀となりまして、わたくしは最早やお庭を去らず、お文庫の瓦《かわら》屋根にじつと見入りながら、最後の覚悟をきめたほどでございました。屋根をみつめてをりますと、その上を這《は》ふ薄い黒煙のなかに太閤《たいこう》様のお顔が自然かさなつて見えて参ります。あの名高い江家《ごうけ》文庫が、仁平《にんぺい》の昔に焼亡して、闔《とびら》を開く暇《いとま》もなく万巻の群書片時に灰となつたと申すのも、やはり午《うま》の刻の火であつたことまでが思ひ合はされ、不吉な予感に生きた心地もございませんでした。幸ひこの火も室町|小路《こうじ
前へ
次へ
全17ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング