向つても甲斐《かい》はあるまい、この倉の中味を説き聴かせ、宥《なだ》めて帰すほかはあるまいとわたくしは心づきまして、一手の者の背後に離れてお築山《つきやま》のほとりにをりました大将株とも見える髯《ひげ》男の傍へ歩み寄りますと、口を開く間もあらばこそ忽《たちま》ちばらばらと駈《か》け寄つた数人の者に軽々と担ぎ上げられ、そのまま築山の谷へ投げ込まれたなり、気を失つてしまつたのでございます。足が地を離れます瞬間に、何者かが顔をすり寄せたのでございませう、むかつくやうな酒気が鼻をついたのを覚えてゐるだけでございます。……
 やがて夕暮の涼気にふと気がつきますと、はやあたりは薄暗くなつてをります。風は先刻よりは余程ないで来た様子ながら、まだひようひようと中空に鳴つてをります。倒れるときお庭石にでも打ちつけたものか、脳天がづきりづきりと痛《や》んでをります。わたくしはその谷間をやうやう這《は》ひ上りますと、ああ今おもひ出しても総身《そうみ》が粟《あわ》だつことでございます。あの宏大もないお庭先一めんに、書籍冊巻の或ひは引きちぎれ、或ひは綴《つづ》りをはなれた大小の白い紙片が、折りからの薄闇のなかに数しれず怪しげに立ち迷つてゐるではございませんか。そこここに散乱したお文櫃《ふみびつ》の中から、白蛇のやうにうねり出てゐる経巻《きょうかん》の類《たぐ》ひも見えます。それもやがて吹き巻く風にちぎられて、行方も知らず鼠《ねずみ》色の中空へ立ち昇つて参ります。寝殿《しんでん》のお焼跡のそこここにまだめらめらと炎の舌を上げてゐるのは、そのあたりへ飛び散つた書冊が新たな薪《たきぎ》となつたものでもございませう。燃えながらに宙へ吹き上げられて、お築地《ついじ》の彼方《かなた》へ舞つてゆく紙帖もございます。わたくしはもうそのまま身動きもできず、この世の人の心地もいたさず、その炎と白と鼠いろの妖《あや》しい地獄絵巻から、いつまでもじいつと瞳を放てずにゐたのでございます。口をしいことながら今かうしてお話し申しても、口|不調法《ぶちょうほう》のわたくしには、あの怖ろしさ、あの不気味さの万分の一もお伝へすることが出来ませぬ。あの有様は未だにこの眼の底に焼きついてをります。いいえ、一生涯この眼から消え失せる期《ご》のあらうことではございますまい。
 やうやくに気をとり直してお文倉《ふみぐら》に入つてみますと
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