ざいます。お歳ははや二十四、ああ世が世ならばと、御立派に御成人のお姿を見るたびに、わたくしは覚えず愚痴の涙も出るのでございました。……実は先刻から申しそびれてをりましたが、この松王さまが(やはり呼び慣れたお名で呼ばせて頂きませう――)、いつの間にやら鶴姫さまと、深いおん言交しの御仲であつたのでございます。母親にたづねてみますれば色々その間のいきさつも分明《ぶんめい》いたしませうが、そのやうな物好き心が何の役にたちませう。ただ、武衛家の御家督に立たれました頃ほひ、太閤様にぢきぢきの御申入れがあつたとやら無かつたとやら、素《もと》より陪臣《ばいしん》のお家柄であつてみれば、そのやうな望みの叶《かな》へられよう道理もございません。それ以来松王さまのお足も自然表むきには遠のいたのでございます。
わたくしとしましては只《ただ》そのお心根がいぢらしく、おん痛はしく、お頼みにまかせて文《ふみ》使ひの役目を勤めてをつたのでございます。お目にかかる折々には、打融《うちと》けられた磊落《らいらく》なお口つきで、「室町が火になつたら、俺が真すぐ駈《か》けつけてやるぞ。屈強な学僧づれを頼んで、文庫も燃させることではないぞ」などと、仰《おお》せになつたものでございます。この御言葉だけでも、わたくしにはどれほど心づよく思はれましたことか。のみならず夕暮どきなど、裏庭の築山《つきやま》のあたりからこつそり忍んで参られることもございました。そのやうな折節には、母親のひそかな計らひで、片時の御対面もあつたやうでございました。また時によつては、「文庫を燃させなんだらその褒美《ほうび》に、姫をさらつて行くからさう思へ」などと御冗談もございました。実を申せばわたくしは内心に、どれほどさうなれかしと望んだことで御座いませう。渦を巻く猛火《みょうか》のなかを、白い被衣《かつぎ》をかづかれた姫君が、鼠《ねずみ》色の僧衣の逞《たくま》しいお肩に乗せられて、御泉水のめぐりをめぐつて彼方《かなた》の闇にみるみるうちに消えてゆく、そのやうな夢ともつかぬ絵姿を心に描いては、風の吹き荒れる晩など樹立《こだち》のざわめくお庭先の暗がりに、よく眺め入つたものでございました。悲しいことに、それもこれも現《うつつ》とはなりませんでした。尤《もっと》もわたくしの眼《まなこ》の中にゑがいた火の色と白と鼠の取り合はせは、後日まつたく思
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