向いてにっこりお笑いになりました。残兵どもは一たん引きました。その隙《すき》に「姫は」とお尋ねになります。「お落し申しました。」「やあ、また仕損じたか」と、まるで人ごとのような平気な仰《おっ》しゃりようをなさいます。つづけて、「細川の手の者が隣の羅刹《らせつ》谷に忍んでいる。ここは間もなく戦場になるぞ。そなたも早く落ちたがよい。俺も今度こそは安心して近江へ往く。これを取って置け」と小柄《こづか》をわたくしの掌《てのひら》に押しつけられたなり、そこへ迫って参りました新手《あらて》の雑兵数人には眼もくれず、のそりと経蔵のかげへ消えてゆかれました。それなりわたくしはあの方にはお目にかからないのでございます。いいえ、今度こそは近江へ行かれたに違いございません。これもわたくしのほんの虫の知らせではありますけれど、これがまた奇妙に当るのでございますよ。
 そののちのことは最早や申上げるほどの事もございますまい。その月の十九日には、関白さまは東の御方、鶴姫さまともども、奈良にお下りになりました。そして月の変りますと早々、これもあなた様よく御存じのとおり、姫君はおん齢《とし》十七を以て御落飾、法華寺の
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