寺の塔が一基のこっておりますだけ、その余は上京《かみぎょう》下京《しもぎょう》おしなべて、そこここに黒々と民家の塊《かたま》りがちらほらしておりますばかり、甍《いらか》を上げる大屋高楼は一つとして見当りません。眺めておりますうちに、くさぐさの思いが胸に迫り、覚えずほろほろと涙があふれそうになって参ります。松王様も押黙られたまま、姫の御消息を打ち返し打ち返し読んでおられます。沈黙《しじま》のうちに小半時もたちましたでしょうか。……
と、松王様はゆきなりお文を一くるみに荒々しく押し揉《も》まれて、そのまま懐《ふところ》ふかく押し込まれると、つとこちらを振り向かれて、「どうだ、よう焼けおったなあ。相国《てら》も焼けた、桃花文庫《ふみぐら》も滅んだ、姫もさらいそこねた、はははは」と激しい息使いで吐きだすようにお話しかけになりました。例になく上ずったお声音《こわね》に、わたくしは初めのうちわが耳を疑ったほどでございます。わたくしが何と申上げる言葉もないままでおりますと、松王様は尚《なお》もつづけて、お口疾《くちど》にあとからあとから溢《あふ》れるように、さながら憑物《つきもの》のついた人のよう
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