小川《こかわ》のあたりも、一面の火の海になっておりました。
 その中を、どこをどう廻って来られたものか、松王さまは学僧衆三四人と連れ立たれて走せつけて下さいました。わたくしは忝《かたじ》けなさと心づよさに、お手をじっと握りしめた儘《まま》、しばしは物も申せなかったことでございました。お文倉にも火の粉《こ》や余燼《もえさし》が落下いたしましたが、それは難なく消しとめ、やがて薄らぎそめた余煙の中で、松王さまもわたくしどもも御文庫の無事を喜び合ったことでございます。松王さまは小半時ほど、焼跡の検分などをお手伝い下さいましたが、もはや大事《だいじ》もあるまいとの事で、間もなく引揚げておいでになりました。
 その未《ひつじ》の刻もおっつけ終る頃でございましたろうか。わたくしどもは、兼ねて用意の糒《ほしひ》などで腹をこしらえ、お文庫の残った上はその壁にせめて小屋なりと差掛け、警固いたさねばなりませんので、寄り寄りその手筈《てはず》を調えておりました所、表の御門から雑兵《ぞうひょう》およそ三四十人ばかり、どっとばかり押し入って参ったのでございます。その暫《しばら》く前に二三人の足軽《あしがる》らしい者が、お庭先へ入っては参りましたが、青侍《あおさぶらい》の制止におとなしく引き退《さが》りましたので、そのまま気にも留めずにいたのでございます。その同勢三四十人の形《なり》の凄《すさ》まじさと申したら、悪鬼羅刹《あっきらせつ》とはこのことでございましょうか、裸身の上に申訳ばかりの胴丸《どうまる》、臑当《すねあて》を着けた者は半数もありますことか、その余の者は思い思いの半裸のすがた、抜身《ぬきみ》の大刀《たち》を肩にした数人の者を先登に、あとは一抱えもあろうかと思われるばかりの檜《ひのき》の丸太を四五人して舁《かつ》いで参る者もあり、空手《からて》で踊りつつ来る者もあり、あっと申す暇もなくわたくしどもは、お文倉《ふみぐら》との間を隔てられてしまったのでございます。刀の鞘《さや》を払って走せ向った血気の青侍二三名は、忽《たちま》ちその大丸太の一薙《ひとな》ぎに遇い、脳漿《のうしょう》散乱して仆《たお》れ伏します。その間にもはや別の丸太を引っ背負って、南面の大扉にえいおうの掛声《かけごえ》も猛に打ち当っておる者もございます。これは到底ちからで歯向っても甲斐《かい》はあるまい、この倉の中味を説き聴かせ、宥《なだ》めて帰すほかはあるまいとわたくしは心づきまして、一手の者の背後に離れてお築山《つきやま》のほとりにおりました大将株とも見える髯《ひげ》男の傍へ歩み寄りますと、口を開く間もあらばこそ忽《たちま》ちばらばらと駈《か》け寄った数人の者に軽々と担ぎ上げられ、そのまま築山の谷へ投げ込まれたなり、気を失ってしまったのでございます。足が地を離れます瞬間に、何者かが顔をすり寄せたのでございましょう、むかつくような酒気が鼻をついたのを覚えているだけでございます。……
 やがて夕暮の涼気にふと気がつきますと、はやあたりは薄暗くなっております。風は先刻よりは余程ないで来た様子ながら、まだひょうひょうと中空に鳴っております。倒れるときお庭石にでも打ちつけたものか、脳天がずきりずきりと痛《や》んでおります。わたくしはその谷間をようよう這《は》い上りますと、ああ今おもい出しても総身《そうみ》が粟《あわ》だつことでございます。あの宏大もないお庭先一めんに、書籍冊巻の或いは引きちぎれ、或いは綴《つづ》りをはなれた大小の白い紙片が、折りからの薄闇のなかに数しれず怪しげに立ち迷っているではございませんか。そこここに散乱したお文櫃《ふみびつ》の中から、白蛇のようにうねり出ている経巻《きょうかん》の類《たぐ》いも見えます。それもやがて吹き巻く風にちぎられて、行方も知らず鼠《ねずみ》色の中空へ立ち昇って参ります。寝殿《しんでん》のお焼跡のそこここにまだめらめらと炎の舌を上げているのは、そのあたりへ飛び散った書冊が新たな薪《たきぎ》となったものでもございましょう。燃えながらに宙へ吹き上げられて、お築地《ついじ》の彼方《かなた》へ舞ってゆく紙帖もございます。わたくしはもうそのまま身動きもできず、この世の人の心地もいたさず、その炎と白と鼠いろの妖《あや》しい地獄絵巻から、いつまでもじいっと瞳を放てずにいたのでございます。口おしいことながら今こうしてお話し申しても、口|不調法《ぶちょうほう》のわたくしには、あの怖ろしさ、あの不気味さの万分の一もお伝えすることが出来ませぬ。あの有様は未だにこの眼の底に焼きついております。いいえ、一生涯この眼から消え失せる期《ご》のあろうことではございますまい。
 ようやくに気をとり直してお文倉《ふみぐら》に入ってみますと、さしもうず高く積まれてありましたお文櫃《ふ
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