は日に幾百と数しれず、四条五条の橋の下に穴をうがって屍《しかばね》を埋める始末となりました。一穴ごとに千人二千人と投げ入れますので、橋の上に立って見わたしますと流れ出す屍も数しれず、石ころのようにごろごろと転《まろ》んで参ります。そのため賀茂《かも》の流れも塞《ふさ》がらんばかり、いやその異様な臭気と申したら、お話にも何にもなるものではございません。いま思いだしても、ついこの頬《ほお》のあたりに漂って参ります。人の噂《うわさ》ではこの冬の京の人死は締めて八万二千とやら申します。
願阿弥陀仏《がんあみだぶつ》と申されるお聖《ひじり》は、この浅ましさを見るに見兼ねられて、義政公にお許しを願って六角堂の前に仮屋を立て、施行《せぎょう》をおこなわれましたが、このとき公方《くぼう》様より下された御喜捨はなんと只《ただ》の百貫|文《もん》と申すではございませんか。また、五山の衆徒に申し下されて、四条五条の橋の上にて大|施餓鬼《せがき》を執行《しゅぎょう》せしめられましたところ、公儀よりは一紙半銭の御喜捨もなく、費《つい》えは悉《ことごと》く僧徒衆の肩にかかり、相国寺のみにても二百貫文を背負い込んだとやら。花の御所の御栄耀《ごえよう》に引きくらべて、わたくし風情《ふぜい》の胸の中までも煮えたつ思いが致したことでございます。
このような天災地妖がたび重なっては、御政道は暗し、何ごとか起らずにいるものではございません。応仁元年正月の初めより、京の人ごころは何かしら異様な物を待つ心地で、あやしい胸さわぎを覚えておりましたところ、果せるかなその月の十八日の夜、洛北《らくほく》の御霊林《ごりょうばやし》に火の手は上ったのでございます。
尤《もっと》もわたくしは二三日前より御用で近江《おうみ》へ参っておりまして、その夜のことは何も存じません。御用もそこそこに飛ぶように帰って参りますと、騒ぎは既に収まって、案外に京の町は落着いております。とは申せその底には容易ならぬ気配も動いておりますし、桃花坊はその夜の合戦の場より隔たっておりませんので、すぐさま御家財|御衣裳《ごいしょう》の御引移しが始まります。太平記と申す御本を拝見いたしますと、去《さ》んぬる正平《しょうへい》の昔、武蔵守《むさしのかみ》殿(高師直《こうのもろなお》)が雲霞《うんか》の兵を引具《ひきぐ》して将軍(尊氏《たかうじ》)御
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