で申せばこれは、父君右兵衛佐殿の調略の牲《にえ》になられたのでございました。松王様が家督をおすべり遊ばした後は、やはり伊勢殿のお差図《さしず》で、いま西の陣一方の旗がしら、左兵衛佐《さひょうえのすけ》殿(斯波|義廉《よしかど》)が渋川家より入って嗣がれましたが、右兵衛さまとしてみれば御家督に未練もあり意地もおありのことは理の当然、幸いお妾《てかけ》の妹君が、そのころ新造さまと申して伊勢殿の寵愛無双《ちょうあいむそう》のお妾であられたのを頼って、御家督におん直りのこと様々に伊勢殿へ懇望せられました事の序《ついで》で、これまた黒衣の宰相などと囃《はや》されて悪名天下にかくれない真蘂西堂にも取入って、そのお口添えを以て公方《くぼう》様をも動かさんものとの御たくらみから、松王様を蔭凉軒に附けられたものでございます。いやはや何と申してよいやら、浅ましいのは人の世の名利《みょうり》争いではございますまいか。これが畠山《はたけやま》殿の御相続争いと一つになって、この応仁の乱れの口火となりましたのを思えば、その陰にしいたげられて、うしろ暗い企らみ事の只《ただ》のお道具に使われておいでの松王様のお身の上は、なかなかお痛わしいの何のと申す段のことではございません。
このたびの大乱の起るに先だちましては、まだそのほかに瑞祥《ずいしょう》と申しますか妖兆と申しますか、色々と厭《いや》らしい不思議がございました。まず寛正《かんしょう》の六年秋には、忘れも致しません九月十三日の夜|亥《い》の刻ごろ、その大いさ七八|尺《しゃく》もあろうかと見える赤い光り物が、坤方《ひつじさる》より艮方《うしとら》へ、風雷のように飛び渡って、虚空《こくう》は鳴動、地軸も揺るがんばかりの凄《すさ》まじさでございました。忽《たちま》ちにして消え去った後は白雲に化したと申します。そのとき安部殿(在貞)などの奉《たてまつ》られた勘文《かんもん》では、これは飢荒、疾疫群死、兵火起、あるいは人民流散、流血積骨の凶兆であった趣でございます。当時、何《なん》ぴとの構えた戯《ざ》[#ルビの「ざ」は底本では「ぎ」]れ事でございましょうか、天狗《てんぐ》の落文《おとしぶみ》などいう札を持歩く者もありまして、その中には「徹書記《てっしょき》、宗砌《そうぜい》、音阿弥、禅竺、近日|此方《こちら》ヘ来《きた》ル可《べ》シ」など記してあった
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