倉の傍を通りかかると、リャボーヴィチは右手の屋敷の方を見やった。窓にはすっかり鎧戸が下りていた。てっきり屋敷の人はまだみんな寝ているのだ。あの昨夜、リャボーヴィチに接吻した女も眠っているのだ。彼はふと彼女の眠っている姿を心に描いてみたくなった。一ぱいに開けはなたれた寝室の窓、その窓をのぞき込んでいる青々した樹の枝、朝のすがすがしい空気、ポプラや紫|丁香花《はしどい》や薔薇の匂い、寝台が一つ、椅子が一つ、それにふわりと掛けてあるのは昨夜さらさらと鳴ったあの衣裳、小さなスリッパ、テーブルの上には小型な懐中時計――といったものは、残らずはっきり手に取るように思い描かれたけれど、眼鼻だちとか、愛くるしい夢うつつの微笑とか、つまり肝腎の特徴的な点になると、まるで水銀が指のまたからこぼれるように、彼の想像から滑り落ちてしまうのだった。四五町も行った頃、彼があとを振返ってみると、黄色い教会や、例の屋敷や、川や、庭園は、さんさんと光を浴びていた。川は目のさめるような緑の両岸にふちどられて、水面《みのも》に浅葱《あさぎ》いろの空を映しながら、ところどころ陽の光を銀色に射返して、とてもきれいだった。リャボ
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