水に沈むロメオとユリヤ
神西清

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)弗羅曼《フラマン》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六十万|石《ごく》

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(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》く
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弗羅曼《フラマン》の娘、近つ代の栄えのひとつ、
弗羅曼の昔ながらに仇気ない……(オノレ・ド・バルザック)
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 黄昏《たそがれ》の街が懶《ものう》く横たはつたまま、そつと伸びあがつて自分の溝渠《ほりわり》に水鏡した。――この様な句を読むとすると、嘗《かつ》てロデンバックの短篇集を繙《ひもと》いたことのある人ならきつとあの廃都ブリュジュの夕暮を思ひ描くに相違ない。そして彼等は聴くであらう、同時に近くから遠くから涌《わ》き起る洞《うつ》ろな鐘のひびきを、続いて無数の黄ばんだ祈りの声を。のみならず、たとへば私なら、もつと先を想像することが出来る。――そんな夜更け、ゴチック風の表飾りのある旅館の湿気《しけ》た寝台のうへには、滅びた恋の野辺の送りをするために、屍灰《しかい》さながらの味《あじわ》ひを互《たがい》の唇のうへになほも吸ひ合ふ恋人たちの横たはつてゐるのを。……何といふ頽廃《たいはい》、何といふ無気力と人は言ふであらう。然《しか》り、私もそれは知つてゐる。けれど、私たちが如何様《いかよう》に自分の住む此《こ》の近代の都市を誇称しようとも、そして昼夜のあらゆる時を通じて其処《そこ》に渦巻くどんな悪徳や鋭ぎ澄ました思想によつて昂奮《こうふん》し偽瞞《ぎまん》されてゐようとも、やはり私たちの都市の疲れてゐることは事実である。そして嘗《かつ》ては或る役所の吏《り》として夕暮から夜更けの川筋を巡邏《じゅんら》の軽舟に揺られて行つたことのある私にとつては、私が此《こ》の物語を始めた句はさほど私たちの都市東京にそぐはないものとも思へない。
 東京を流れる六十九筋の溝渠《ほりわり》や川の底から一年のあひだに浚渫《しゅんせつ》される泥土の量が二万立方坪にも近いといふ事実は大して人々を驚かすものではない。それは年老いた此の都市から泌《し》み出る老廃物のごく小量の分け前にしか過ぎないのだから。これらの疲労した川筋を通して一年に七千四百万貫の塵芥《じんかい》を吹き、六十万|石《ごく》の糞尿《ふんにょう》を棄《す》て、さらに八億立方|尺《しゃく》にも余る汚水を吐き出す此の巨大な怪獣の皮腺《ひせん》から漏《も》れる垢脂《こうし》に過ぎないのだから。……のみならず、この夥《おびただ》しい排泄《はいせつ》物の腐れた臭ひに半ばは埋《うも》れて一万二千の小舟が動き廻り、三万余りの男女がその中に「生きて」ゐるのを私たちは知つてゐる。私たちが殆《ほとん》ど忘れたままでゐる自分の蹠《あなうら》よりももつと低いところに。そして黄昏《たそがれ》が消えると街は彼女の鏡を力無く取り落すのである。街と川とは別々に、秘密に満ちた夜闇に陥つて行くのである。

 大正十二年の罹災《りさい》によつて一時はその数を三分の一にも減じた水上生活者の群が、いつとは知れず再び元通りの数に近づかうとしてゐた頃の或る夏近くのことであるが、ステラと名づけられた一|隻《せき》の真白な快走船が隅田川の下流を中心にある仕事に従ふ様になつて、その際だつた姿態によつて他の舟々の眼を惹《ひ》いてゐた。ステラが「仲間」の眼を惹いたのはしかしその船体によつてだけではなく、その名のとほり「星」のやうな船長の一人娘の耀《かがや》きによつてでもあつた。肉づきのいい大柄な此の娘は真白なセイラーの裳《もすそ》を川風にひるがへして、甲板《かんぱん》に立つて舵《かじ》を操つた。彼女は花子と呼ばれた。そして偶然の導きによつて、ステラが夜の泊りにする慣はしである明石橋を入り込んだささやかな湾《いりうみ》に似た水に、しかもよく隣り合はせて夜を睡《ねむ》る一隻の名もない古びた伝馬《てんま》船があつた。その仲間の言葉で「風来船」と呼びならされる一群の船のひとつである此の船の息子に定と呼ばれる少年があつた。此の少年が間もなく花子を恋する様になつた。
 定の父親は赭《あか》ら顔の酒食ひで陸に暮してゐた頃から定職がなかつたと同様、川に追はれて来てもやはり彼の船は定つた航路を有《も》たなかつた。船は時にその腹に汚水や糞尿を船脚《ふなあし》の重くなるまで満喫する代りには時に淫蕩《いんとう》な男女の秘密を載せて軽々と浮く様な性質のものであつた。従つてその泊り場も一定してゐた訳ではなく、或る時は隅田川の上流の人気《ひとけ》ない浅瀬に、或る時は都市の中央に架《かか》つた巨大な橋の下に。その年、夏ちかく川筋一帯を襲つた浅ましい「不景気」のため、此の船は一と月あまりの間も明石|河岸《がし》にへたばり着いたまま死んだものの様に動かなかつた。父親は乏しい質草《しちぐさ》を次から次へと飲みあげ、濁声《だみごえ》で歌を唄《うた》ひ、稀《まれ》には「女」といぎたなく船底にもぐつて眠つた。定は陸《おか》を怖れてゐたので街をうろつくことは無かつたものの、その様な夜更けには板子の上に突つ起《た》つてはげしく然《しか》し声もなく月に向つて吠《ほ》えわめいた。彼が花子を恋する様になつたのはそんな夜の一つであつた。[#「一つであつた。」は底本では「一つであつた」]
 定は闇の中にぢつと何かを見つめて立つてゐた。彼にはそれが何なのか解らなかつた。唯《ただ》其処《そこ》から鈍い光りがにぢみ出てゐるのには相違なかつた。昼のあひだの酷《ひど》い暑気に蒸された川の面の臭ひに夜更けの冷気がしんしんと入れ混つて、たとへば葦間《いかん》の腐臭を嗅《か》ぐやうな不思議な匂《におい》を有《も》つた靄《もや》が、風が無いのでヒソリともしない水面低く立ち迷つてゐた。犬のやうにクンクンと鼻を鳴らしながら定は自分が深いところへと落ち込んで行くのを感じた。定はふらふらと仄光《ほのあかり》の方へよろめき動いた。軈《やが》て燈火は彼の眼した三|間《けん》のあたりに現はれた。彼はそれがすぐ傍に繋《つなが》れたステラの船室から漏《も》れる明るさなのを了解した。そのとき引き残された窓布のすきに妙に黄ぼけた腓《こむら》がふと動いた。彼はすばやく別の舷《ふなばた》へと跳び移つた。その拍子に蹴込《けこ》んだらしい小石か何かの立てた鈍い水音を定は耳殻の後方に聞き流した。船室の屋根の手欄につかまりながら何故《なぜ》ともなしに上方を仰いだ彼の眼に、夥《おびただ》しい星影がまるで砂礫《されき》か何かのやうに無意味であつた。船の揺れはぢきに止つた。定は屈《かが》み込んで船扉を引き上げた。彼の眼にうつつた狭い船室の内部は思つたよりも煌々《こうこう》として居、其処にただ一の陰影しか残されてはゐなかつた。
 そのとき花子は二十、定は二つ歳下の十八であつた。

 しかし恋の楽欲《ぎょうよく》を先《ま》づ了解したのは寧《むし》ろ花子であつた。彼女は自分の肉体が女王に、自分の精神が奴隷《どれい》になり果てるのを急激に経験し理解した。彼女にとつてそれが恋の死ぬばかりの快よさの全部であつた。定はこの様な花子の前に俘囚《ふしゅう》のやうに盲従しなければならない自分の位置を間もなく知つた。夏になり、やがて暦のうへでの夏が畢《おわ》つた。残暑の日が長たらしく続き、それが水の上の生活を沙漠《さばく》に咲き誇る石鹸天《さぼてん》の様に荒廃させた。密度の高い瘴気《しょうき》が来る日も来る日も彼等の周囲を罩《こ》めて凝固してゐた。白昼の太陽が別の世界の太陽でもあるかのやうに実に高い所でくるめいた。暑い瘴気の層を透して人々は昼の星宿の回転する響音を聴いた。そんな真昼どき花子は定に自分の姙娠《にんしん》を告げた。彼女は晩夏の花のやうに傲慢《ごうまん》に唇をそらした。定は黙つて彼女を聴き、聴き畢ると眼を真昼の星宿の方へと投げた。彼は自分の裡《うち》に判然《はっきり》とした形をとつた花子への「憎悪」をはじめて此《こ》の時に感じた。彼の心は悲哀に満ち、彼には蒼《あお》ざめた星宿が無性になつかしかつた。
 憎悪といへば娘の姙娠についてステラの船長は定よりももつと致命的な憎悪を感じた。彼はチョッキの前を掻《か》きむしり乍《なが》ら嗚咽《おえつ》しわめいた。――「お前のお母さんを見ろ! 立派なお邸《やしき》の『奥女中』として陸の上で歴乎《れっき》として暮しをしてゐるではないか。『御前《ごぜん》様』がくたばれば大した遺産の分け前も約束されてゐるのだ。俺《おれ》はどうせ下積で死ぬとしてもせめてお前だけはお母さんに『恥しくない』立派な身分に仕立て上げたかつたのに! 今では俺の苦心も水の泡だ。しかも相手もあらうに風来船の青二才なんかと! この恥知らずの女《あま》め!」船長は力に任せて花子を引き倒した。花子がドサリと横に倒れその重みで船が傾《かし》ぐほど揺れて激しい水音が舷側《げんそく》にすると、彼は見る見る狂暴になつた。船長は床の上から鉄のハンドルを掴《つか》むと娘の腿《もも》のあたりを所きらはず乱打した。鉄の棒に響いて来る彼女の肉体の強靱《きょうじん》な弾力を残忍な位ヒシヒシと心に感じながら。そこへ定が現はれた。争闘は短かかつた。船長は鞠《まり》の様にすばやく転び上ると何やら激しく叫び立て乍《なが》ら逃れ去つた。逃げしなに彼の投げた手裏剣《しゅりけん》、青|痰《たん》の一塊《いっかい》が定の真白い肩先にペッタリとへばり着いた。
 花子は定の腕の中に仰向《あおむ》けに抱きかかへられたまま薄眼を開いてゐた。脹《は》れぼつたい唇が暗紫色に染まりその間から小さな舌の尖《さき》があらはれてゐた。定は裳《もすそ》をひき上げて花子の創痕《きずあと》をしらべた。並行して血を滲《にじ》ませた幾条かの打ち創のあるものはひそやかに血潮を吹いてゐた。定は静かに頭《こうべ》を垂れると次々にその創痕に唇を当てて行つた。その味《あじわ》ひは塩辛く彼の胸には苦艾《にがよもぎ》に似た悔恨が疼《うず》いた。しかし彼はその瞬間ごとに花子の薄眼のすきから誘惑に満ちた紫色の視線がほとばしり出るのを知らなかつた。滅びる前の最後の情欲の美しい燃え立ちが。

 市立産院の燈火は終夜その黄いろな眼を開いてゐる。清潔な沢山《たくさん》の寝台の中には貧しい母親たちが彼女たちから奪はれて行つた産児への手振りを無駄《むだ》にガランとした空間に描いてゐる。母親たちの眼は力無く終夜閉ぢられてゐる。彼女たちの弱つた注意力はそれでも長い廊下を隔てた乳児院の物の気配へと絶えず張られてゐる。いまその廊下を一人の若い看護婦が足音も立てずに真直《まっすぐ》に産児院の方へと歩いて行く。彼女の横顔は尼僧の様に冷たい線を有《も》つてゐる。彼女は静かにノッブを廻して室内にあらはれる。可愛《かわい》らしい寝台の上には初生児たちがガーゼに包まれて一つづつ置いてある。女は腰をかがめて一つ一つを覗《のぞ》いてまはる。此《こ》の室《へや》の空気には生物学の標本室の匂《におい》がする。初生児は皮膚で呼吸する動物のやうにまるで音を立てない。看護婦は再びノッブを廻して次の室へとあらはれる。かすかに揺れ動いた風の気配に、壁にもたれて睡《やす》んでゐた若い保姆《ほぼ》の一人が眼をさまして立ち上る。二人の女は眼を見合はせ、さてさも物珍らしげに室内を見廻す。此の室の寝台は檻《おり》を思はせる。もう立ち上ることの出来る幼児たちが保姆を「あまり」妨げないために寝台は四囲に二尺ばかりの鉄柵を有つてゐるのである。幼児|等《ら》は昼間でもその檻から出ない。看護婦は第一の寝台に近づく。そのとき四番目の寝台から男の児《こ》が小さな幽霊のやうに起きあがる。彼はよろめきながら、昼間ぢゆうつかまり続けた鉄柵につかまつて立つてゐる。その眼は何も見てゐない。二人の
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