点がいくだろうて。……」
といった次第で、その場の騒ぎもおさまって、うちの弟とマーシェンカの婚礼は、主顕節がすむと早々あげられた。さてその翌る日、僕たち夫婦は、若夫婦のご機嫌奉伺に出かけていった。
※[#ローマ数字5、1−13−25]
行ってみると、向うの御両人は今しがた起きたところで、ご機嫌も常になく上々吉だった。弟のやつは、新婚の日にそなえてあらかじめ旅館にとっておいた部屋のドアを、手ずから開けて、喜色満面、からからと高笑いしながら、われわれを迎えてくれた。
それを見て僕は、ある古い小説を思いだしちまった。それは新郎が嬉しさあまって発狂するという話だったが、僕がそいつを、当てられた腹いせがてら弟に話してやると、奴さんこんな返事をした、――
「いや、ちょうど兄さんの言われるようなことが、じっさい僕の身にも起りましてね、こいつはどうも吾ながら気が変になったのじゃあるまいかと、そう思ってた矢先なんです。今日ここに初日をあけた僕の家庭生活は、わが最愛の妻に期待していたよろこびを僕にもたらしたのみならず、舅どのからまで、予期せざる福運を授けてもらったという次第なんです。」
「そりゃまた一体、何ごとがもちあがったんだい?」
「まあ、ずっとお通りください、お話ししますから。」
家内は僕に耳うちして、
「てっきりあの古狸のやつに一杯くわされたんだわ。」
僕はこたえて、
「おれの知った事じゃないよ。」
さてわれわれが通ると、弟は封の切ってある一通の手紙をわれわれに示した。それはその朝はやく市内郵便で、両人の名宛で配達されたもので、次のような文面だった、――
『真珠にからむ迷信などにびくつくこと一切無用なり。あの真珠はにせもの[#「にせもの」に傍点]なれば。』
家内は、どうとばかり尻餅をついちまった。そして、
「ちぇっ、ひどい奴!」と、ただ一言。
ところが弟は、マーシェンカが寝室で朝化粧をしている方角を、あごで指してみせながら、こう言うのだ、――
「姉さん、そりゃ違います。あの老人のやり方は正々堂々たるもんですよ。僕はこの手紙をうけ取って、一読おもわず呵々大笑しましたね。……一体なんの泣きべそかくことがあるんです? 僕のさがしていたのは持参金じゃなく、またそれが欲しいとも言いやしませんでした。僕のさがしていたのは、女房だけです。だから、あの首飾りの真珠が本物じゃなく、じつは似せ物だったと聞かされたところで、僕はちっとも痛くも痒くもありゃしません。よしんばあの首飾りの値打ちが一万三千ルーブリじゃなくて、ただの三百ルーブリだとしても、――僕の女房が仕合わせでいてくれさえすりゃ、要するにどうだっていいことじゃありませんかね。……ただ一つ僕が心配だったのは、これをどうマーシャに伝えたらいいか、ということでした。思いあぐねて、窓の方を向いて坐りこんだまま、ドアの掛金をおろし忘れたことに、つい気がつかなかったんです。五六分してから、ふと振り返ってみると、僕のすぐうしろに思いがけず舅どのが立っていて、片手に何かハンカチに包んだものを握っているんです。そして、
――おはよう、婿さんや!』という挨拶。
僕はとびあがるように立ちあがって、舅さんを抱擁し、こう言いました。
――いや恐縮です! もう一時間もしたら、二人そろって伺うつもりでいたのに、そちらからわざわざ……。これじゃすっかり順序があべこべで……恐縮とも有難いとも。……』
――なあんだ、そんな固苦しいことを! 他人じゃあるまいしさ。わしは今、ミサにお参りしてな、――お前たち夫婦のことを祈って、それこのとおり聖餅《プロスヴィラ》を頂いて来てやったという次第なのさ。』
僕は、もう一ぺん舅どのを抱擁して、接吻しました。
――して、わしの手紙はとどいたかな?』と聞きます。
――そりゃもう、とどきましたとも。』
と僕はこたえて、おもわず大声で笑いだしました。
向うは呆気にとられて、
――何がそうおかしいのかな?』と聞きます。
――だって、仕様がないじゃありませんか? とっても痛快なんですもの。』
――痛快だとな?』
――ええ、そうですとも。』
――まあいいから、あの真珠を出してごらん。』
首飾りは、ついそこのテーブルの上に、ケースに納めて置いてありました。僕は出して渡しました。
――虫めがねはあるかな?』
ありません、と僕は答えます。
――そんなら、わしが持っている。昔からの習慣で、いつもこうして持って歩いているのさ。さあひとつ、留め金のパチンのところを、とっくり見てごらん。』
――見てどうするんです?』
――まあいいから、見てごらん。お前さん、ひょっとすると、わしに担がれたとでも思ってやしないかの。』
――そんなこと、思ってやしませんよ。』
――いいから見てごらん、見てごらん!』
そこで虫めがねを当ててみると、そのパチンの一ばん目につかないところに、模造真珠《ブルギニヨン》というフランス文字が、毛彫りになっていました。
――得心が行ったかな、これがほんとに似せものの真珠だということに?』
――わかりました。』
――そこで、わしに何か言いたいことはないかな?』
――さっき申しあげた通りです。というのはつまり、僕としては痛くも痒くもないということです。もっとも、たった一つお願いがあるんですが……』
――いいとも、いいとも、遠慮なく言うがいい!』
――これをマーシャには黙っていて頂きたいんですが。』
――ほう、それはまたどうしてかな?』
――ただそれだけです。……』
――いや、その謂われが聞きたいのだ。あれにがっかりさせたくないとお言いなのかい?』
――ええ、まあ、それもあるんですけど。』
――まだそのほかに何かあるのかい?』
――ええ、じつはもう一つ、あれの胸の底に、なにかお父さんにたいする反感のようなものが、芽ばえては困ると思うんです。』
――お父さんにたいする反感?』
――ええ。』
――なあんだ、父親にとって、あれはもう切りとったパンの一片《ひときれ》みたいなものさね。もとのパンの塊まりとは縁がきれてるんだ。あれに大切なのは――ご亭主だよ。……』
――心は仮りの宿りならず、というじゃありませんか』と、僕は言いました、『心というものは、そんな手狭《てぜま》なもんじゃありません。お父さんへの愛も愛なら、良人《おっと》にたいする愛も愛です。それにもう一つ、……もし幸福な良人になりたければ、じぶんの妻を尊敬できるようでなくちゃなりません。それができるためには、妻の心から、生みの両親にたいする愛や尊敬を、なくさせてはならないと思います。』
――いやあ、これはどうも! お前さんもなかなか、隅に置けないわい!』
そう言って、舅は腰掛の腕木に、黙然と指で拍子をとりはじめましたが、やがて立ちあがって、こう言いました。
――わしはな、なあ婿さんや、裸一貫で今の身上《しんしょ》をきずき上げた男だが、それにはまあ、色んな手を使ったものさ。高尚な見方からすれば、わしの使った手のなかには、あまり感服できないものもあるかも知れんが、まあとにかく、それも御時勢だったし、まあわしには、ほかに身上をきずきあげる手だてもなかったわけだ。他人というものを、わしは大して信用もしないし、ましてや愛などというものに至っては、ひとさまの読む小説本とやらいうものの中に書いてあると聞くだけのことで、正直の話わしはいつも、人間はみんなお銭《あし》をほしがるものだと考えていた。上の娘をやった二人の婿さんたちに、わしは持参金をつけてやらなかったが、果せるかな、あの二人はわしを恨みに思って、いつかな細君をわしのところへよこしたがらない。どんなもんだろうな、――あの婿さんたちとこのわしと、一体どっちが真《ま》人間らしいかな? わしはなるほど、奴さんたちに銭《ぜに》こそやらなかったが、奴さんたちと来た日にや、親子の情合いに水をさそうというのだ。ところでわしは、あの二人にや一文だってやることじゃないけれど、お前さんにや、財布のひもをゆるめて、ひと奮発させて貰おうわい! そうとも! いや、今この場で早速、ひと奮発させて貰いましょ!』――といったわけでしてね、まあこれを見てください!」
と弟のやつ、五万ルーブリの手形を三枚、僕たちに出して見せたのさ。
「へええ」と僕はあきれて、「それをみんな、細君にやれとの御意なのかい?」
「いいえ」と弟、――「マーシャには五万だけやって置けというんです。そこで僕はこう言いました。
――ねえ、ニコライ・イヴァーノヴィチ、これは少々もったいな過ぎますよ。……マーシャにしてみれば、あなたから持参金を頂いたりして、却ってくすぐったい思いがしましょうし、姉さんたちがまた――いや、こいつはいけません。……これじゃきっと姉さんたちがあれを妬いて、仲たがいの因になりますよ。……そうなっては困ります、姉さんたちの仕合わせもお考えになってください、どうぞこのお金は一応お納めくだすって……いずれそのうち、何かいい風の吹きまわしで、あなたと姉さんたちの間のこだわりが解けほぐれたとき、三人に[#「三人に」に傍点]等分に分けてやってください。その暁にこそ、このお金はわれわれ一同に、悦びをもたらしてくれるというものです。……どうしても僕たちにだけと仰しゃるのでしたら、失礼ながらお断わりします[#「お断わりします」に傍点]!』
すると親父さんは立ちあがって、またもや一わたり部屋の中を歩きまわったが、やがて寝室のドアの前に立ちどまると、大声で、
――マーシャ!』と呼びました。
マーシャは、もうちゃんと化粧着を羽織って、出て来ました。
――おめでとう』と、舅さんが言います。
マーシャは父親の手に接吻しました。
――どうだな、仕合わせになりたいかな?』
――そりゃパパ、なりたいわ。それに……どうやら成れそうですわ。』
――よしよし。……お前さん運よく、いい聟がねを引き当てたぞ!』
――あらパパ、あたし引き当てなんぞしませんわよ。神様から授かったんですわ。』
――ああ、よしよし。神様がお授けくだすった。じゃわしは、ちょいと景品を[#「景品を」に傍点]つけさせて貰おうかな。わしは、お前の幸福を、ちっとばかり殖やしてやりたいのさ。ご覧、ここに手形が三枚ある。みんな同じ金高だ。一枚はお前にやる、残る二枚は姉さんたちにおやり。お前の手で分けておやり――これはお前の志[#「お前の志」に傍点]だといってな。……』
――まあパパ!』
マーシャは最初お父さんの首っ玉へかじりつきましたが、やがていきなりぺたりと床べたに坐りこむと、嬉し涙をぼろぼろこぼしながら、親父さんの膝に抱きつきました。見ると――親父さんも泣いていました。
――お立ち、お立ち!』と、親父さんが言います。――『それでお前は、下世話にいう「奥方さま」だ、――わしなんぞに土下座するなんて法はないわい。』
――でもあたし、ほんとに嬉しくって……さぞ姉さんたちが!……』
――まあいい、まあいい。わしも嬉しいぞ!……どうだな、やっと分ったろう、真珠の首飾りなんか怖くもおそろしくもないことが。そうさ、わしはお前に秘密を明かそうと、わざわざやって来たのだったな。それは他でもない、わしがお前に贈物にした似せの真珠[#「似せの真珠」に傍点]は、わしがずっと以前、心をゆるした親友に一杯くわされた代物なのだよ、……何しろその来歴というのがな、――畏《かし》こしとも畏こし、帝室の御物《ぎょぶつ》と唐室の御物とを、一つにつなぎ合わせた稀代の逸品という触れこみなのさ。それに引きかえ、お前さんのご亭主は、この通りの無骨な男じゃあるが、こういう男に一杯くわせるなんていうことは、とても出来ることじゃない、人間のたましいが、だいいち承知をせんわい!』」
「僕の話というのは、これでおしまいだよ」と、語り手は物語をむすんだ、――「いかがです、お聞きの通りの現代の出来事ではあり、嘘いつわりのない実話でもあるんだが
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