上をきずきあげる手だてもなかったわけだ。他人というものを、わしは大して信用もしないし、ましてや愛などというものに至っては、ひとさまの読む小説本とやらいうものの中に書いてあると聞くだけのことで、正直の話わしはいつも、人間はみんなお銭《あし》をほしがるものだと考えていた。上の娘をやった二人の婿さんたちに、わしは持参金をつけてやらなかったが、果せるかな、あの二人はわしを恨みに思って、いつかな細君をわしのところへよこしたがらない。どんなもんだろうな、――あの婿さんたちとこのわしと、一体どっちが真《ま》人間らしいかな? わしはなるほど、奴さんたちに銭《ぜに》こそやらなかったが、奴さんたちと来た日にや、親子の情合いに水をさそうというのだ。ところでわしは、あの二人にや一文だってやることじゃないけれど、お前さんにや、財布のひもをゆるめて、ひと奮発させて貰おうわい! そうとも! いや、今この場で早速、ひと奮発させて貰いましょ!』――といったわけでしてね、まあこれを見てください!」
 と弟のやつ、五万ルーブリの手形を三枚、僕たちに出して見せたのさ。
「へええ」と僕はあきれて、「それをみんな、細君にやれとの御意なのかい?」
「いいえ」と弟、――「マーシャには五万だけやって置けというんです。そこで僕はこう言いました。
 ――ねえ、ニコライ・イヴァーノヴィチ、これは少々もったいな過ぎますよ。……マーシャにしてみれば、あなたから持参金を頂いたりして、却ってくすぐったい思いがしましょうし、姉さんたちがまた――いや、こいつはいけません。……これじゃきっと姉さんたちがあれを妬いて、仲たがいの因になりますよ。……そうなっては困ります、姉さんたちの仕合わせもお考えになってください、どうぞこのお金は一応お納めくだすって……いずれそのうち、何かいい風の吹きまわしで、あなたと姉さんたちの間のこだわりが解けほぐれたとき、三人に[#「三人に」に傍点]等分に分けてやってください。その暁にこそ、このお金はわれわれ一同に、悦びをもたらしてくれるというものです。……どうしても僕たちにだけと仰しゃるのでしたら、失礼ながらお断わりします[#「お断わりします」に傍点]!』
 すると親父さんは立ちあがって、またもや一わたり部屋の中を歩きまわったが、やがて寝室のドアの前に立ちどまると、大声で、
 ――マーシャ!』と呼びました。
 マーシャは、もうちゃんと化粧着を羽織って、出て来ました。
 ――おめでとう』と、舅さんが言います。
 マーシャは父親の手に接吻しました。
 ――どうだな、仕合わせになりたいかな?』
 ――そりゃパパ、なりたいわ。それに……どうやら成れそうですわ。』
 ――よしよし。……お前さん運よく、いい聟がねを引き当てたぞ!』
 ――あらパパ、あたし引き当てなんぞしませんわよ。神様から授かったんですわ。』
 ――ああ、よしよし。神様がお授けくだすった。じゃわしは、ちょいと景品を[#「景品を」に傍点]つけさせて貰おうかな。わしは、お前の幸福を、ちっとばかり殖やしてやりたいのさ。ご覧、ここに手形が三枚ある。みんな同じ金高だ。一枚はお前にやる、残る二枚は姉さんたちにおやり。お前の手で分けておやり――これはお前の志[#「お前の志」に傍点]だといってな。……』
 ――まあパパ!』
 マーシャは最初お父さんの首っ玉へかじりつきましたが、やがていきなりぺたりと床べたに坐りこむと、嬉し涙をぼろぼろこぼしながら、親父さんの膝に抱きつきました。見ると――親父さんも泣いていました。
 ――お立ち、お立ち!』と、親父さんが言います。――『それでお前は、下世話にいう「奥方さま」だ、――わしなんぞに土下座するなんて法はないわい。』
 ――でもあたし、ほんとに嬉しくって……さぞ姉さんたちが!……』
 ――まあいい、まあいい。わしも嬉しいぞ!……どうだな、やっと分ったろう、真珠の首飾りなんか怖くもおそろしくもないことが。そうさ、わしはお前に秘密を明かそうと、わざわざやって来たのだったな。それは他でもない、わしがお前に贈物にした似せの真珠[#「似せの真珠」に傍点]は、わしがずっと以前、心をゆるした親友に一杯くわされた代物なのだよ、……何しろその来歴というのがな、――畏《かし》こしとも畏こし、帝室の御物《ぎょぶつ》と唐室の御物とを、一つにつなぎ合わせた稀代の逸品という触れこみなのさ。それに引きかえ、お前さんのご亭主は、この通りの無骨な男じゃあるが、こういう男に一杯くわせるなんていうことは、とても出来ることじゃない、人間のたましいが、だいいち承知をせんわい!』」
「僕の話というのは、これでおしまいだよ」と、語り手は物語をむすんだ、――「いかがです、お聞きの通りの現代の出来事ではあり、嘘いつわりのない実話でもあるんだが
前へ 次へ
全11ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング