い?……マーシェンカはまったく素晴らしい娘だし、うちの女房だってなかなかいい女じゃないか?……おまけにこの俺だって、有難いことに、世間から後ろ指をさされたことはない。だのにその俺たち夫婦が、四年もつづいた幸福な、束の間だって波風ひとつ立った例しのない暮らしのあげくに、こうして熊公お鍋みたいに悪態の吐《つ》き合いをしちまったんだ。……それというのも元をただせば、一向くだらん、たかが他人の馬鹿馬鹿しい気まぐれからじゃないか。……」
僕はとたんに吾ながら穴へでもはいりたいほど恥かしくなる一方、家内が可哀そうで可哀そうでならなくなった。けだし、家内の吐いた屁理窟なんかはきれいに棚へ上げて、何から何まで自分一人のせいにしちまったわけだね。まあ、そうした侘びしくも遣瀬ない気分で、僕は書斎のソファの上で、ぐっすり寝込んじまったという次第さ。ほかならぬわが最愛の女房が手ずから縫ってくれた、ふかふかした綿入れの部屋着にくるまってね。……
しなやかな細君の手で、良人のために縫いあげられた着心地のいい不断着というやつは……全くへんに情にからんでくる代物だよ! じつに工合がいいし、じつに懐かしいし、おまけに折よくにしろ折あしくにしろ、まざまざとわれわれ男子の罪悪を思いださせてくれもするし、いやそれのみか、縫ってくれた白い柔手《やわで》までが、まざまざと思いだされて、いきなりそれに接吻して、俺が悪かった、赦しておくれ――と言いたくなっちまう。
「赦しておくれ、ねえお前、さっきはついお前の言葉で、むらむらっとしてしまったが。もうこれからは気をつけるからね。」
そいつがまた、白状するとね、一刻も早く謝まりたくって矢も盾もたまらず、その拍子につい目が覚めちまって、起きあがりざま、書斎からのこのこ出ていったものさ。
見ると――家じゅうまっ暗がりで、シンとしている。
「奥さんはどこだい?」
って女中にきくと、
「奥さまは弟さまとご一緒に、マリヤ・ニコラーエヴナのお父様のところへ、お出ましになりました。只今すぐお茶をお入れしますから」という返事だ。
『こりゃ驚いた!』と僕は思ったね、――『するとつまり、あいつとうとう我を張りとおすつもりだな――相変らず弟のやつを、マーシェンカと一緒にしようっていうんだな。……ええ、どうなりと勝手にするがいい。そしてマーシェンカの狸親父に、上の二人の婿さん同様、まんまと化かされてみるがいい。いいやどうして、その段じゃ済むまいぜ。あの婿さんは二人とも相当な曲者だったが、うちの弟ときた日にや、あの通りの正直権現、弱気地蔵だからなあ。まあいいさ、――弟のやつも女房のやつも、たんと瞞くらかされるがいいや。月下氷人《なこうど》という役がどんなに難かしいものか、第一課でうんと手を焼いてみるがいいや。』
僕は女中の手からお茶のコップを受けとると、坐りこんで訴訟書類に目をとおしはじめた。それは明日から裁判のはじまる事件で、僕にとってはちょっと骨の折れる仕事だったのだ。
調べ物につい気をとられて、気がついた時はもう真夜中をだいぶ越していたが、家内と弟とは二時という時刻に、二人ともすこぶる御機嫌さんで帰ってきた。
家内が言うことにや、――
「いかが、コールド・ビーフを、葡萄酒に水をあしらって召しあがらないこと? わたしたちは、ヴァシーリエヴナさんところで、お夜食をすませて来ましたの。」
「いや」と僕、――「御好意は忝けないがね。」
「ニコライ・イヴァーノヴィチさんたら、すごく気前を見せてね、わたしたちすっかり御馳走になっちまったわ。」
「なるほどね。」
「ええ、――とても愉快で、時のたつのも忘れたほどでしたの。おまけにシャンパンまで出たわよ。」
「そりゃよかった!」と僕は答えて、さて肚の中でこう考えた、――『ははあ、あのニコライの悪党め、うちの弟の御面相から、一目でこりゃいい鴨だわいと見破りおって、腹に一物の御馳走ぜめとおいでなすったな。まず当分は、いずれ縁談が本ぎまりになるまで、ちやほやしておいて、それから矢庭に、――爪牙をあらわそうって寸法だな。』
その一方、家内にたいする僕の感情は又ぞろ悪化して、さっきは別に悪気はなかったんだから赦しておくれ――なんていう口上[#「口上」に傍点]は、今更おかしくって言い出せなくなった。いや、それどころか、もし僕にこれという差迫った用事もなくて、この御両人がおっぱじめた恋愛遊戯の一進一退に、いちいち茶々を入れられるほどの閑人だったとしたら、てっきり僕は又しても堪忍ぶくろの緒を切らして、何かしら余計な口出しをして、とどのつまり、出ていけ出ていきます――ぐらいの騒ぎになったに相違ないんだが、幸いにして僕はそれどころじゃなかった。つまり、さっきも言ったその訴訟事件というのが、ひどく手ごわい代物でね、僕た
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