ないのです。千恵はそこまではつきり申しあげてもいいのです。……
でも時たまは、姉さまをほんとにお気の毒だと思ふこともないではありません。なにかしら姉さまのためにお祈りしたいやうな気持の湧《わ》くこともあります。でもその祈りの気持といふのは、煎《せん》じつめてみると結局、このうへ姉さまに俗世のきづなの苦しみを与へてはならないのだ――といふことに落ちついてしまひます。もうすこしきれいな言ひ方をすると、それは姉さまの幸福を傷つけたくないといふ気持――そんなふうにも言へるのかも知れません。
母さま、――これは偽善の言葉でせうか? でも千恵は、偽善なら偽善でいいのです。そんな偽善よりももつと怖ろしい悪に、わたしたち人間は知らず知らず落ちこみがちなことに、千恵はやうやく気づいてをります。それを母さまの前ではつきり何と名ざすのは、なんぼ千恵でも随分とつらいことです。まあそんな話はやめに致しませう。そろそろ夜明けが近いやうな空気の薄さが感じられます。今日は朝十時から子宮|癌《がん》患者の手術があります。千恵はG先生のお手伝ひをすることになつてゐるので、明るくならないうちに一時間でも二時間でも眠つて
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