、千恵はうろうろ書きまどつてゐるのでせうか? 今はもう怖れもありません。それにお母さまの前ですもの、なんの遠慮もあらう道理はありません。ええ、さうです。姉さまは生きておいでです。確かに生きておいでです。この一月ほどのうちに、なんども千恵は姉さまをこの目で見ました。現に昨日も見ました。それはいかにも怖ろしい姿でしたが、だといつて何も、姉さまのお顔に戦災で引つ攣《つ》れができてゐるわけでも、片眼がつぶれておいでのわけでも、虱《しらみ》だらけの乞食《こじき》のなりをしておいでのわけでも、またはそれとあべこべに、敗戦後の東京で特に大はやりのれいの職業婦人めいた毒々しい身なりをしておいでだつたわけでもありません。黒つぽいスーツに濃い茶色のオーヴァをぴつちり召して、帽子はかぶらず、かなり踵《かかと》の高い靴をはいておいでです。それに、両脚をまつすぐ伸ばして、やや気ぜはしく小刻みにこつこつ歩くところも、昔の姉さまそのままです。思ひなしか少しばかり猫背におなりのやうですが、それでゐて身丈《みたけ》は昔より一層すらりと高く見受けられるのは、やはり幾ぶんお痩《や》せになつたせゐかも知れません。そんなふうな
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