どHさんが夕方ひとりで店番をしてゐた時、姉さまが心配さうな蒼い顔をして、小児用のイチジク灌腸《かんちょう》を買ひに見えたのださうです。もう都内の薬局は何によらず品薄になつてゐた頃で、もちろんイチジク灌腸もその例外ではありませんでしたが、普通ならにべもなく「お生憎《あいにく》さま」で済ますところを、Hさんは姉さまの真剣な顔つきに気押《けお》されて、気前よく手持ちのなかから半ダース譲つてあげたのださうです。そんなことがあつたので、尚《なお》のことHさんの眼は敏感にはたらいたわけなのでした。
 そのHさんの叫び声に、姉さまはじいつとHさんの顔を見つめましたが、そのまなざしは全くうつろな、感動の色も識別力の気配も全然ない、いはばほうけきつたやうな眼だつたさうです。
 そんな眼つきで暫《しばら》くHさんの顔を見てゐた姉さまは、やがてにたりと不気味な薄笑ひを蒼白《あおじろ》い顔にうかべると、その時までしつかり掴《つか》まへてゐた古島さんの片腕をはなして、すうつと足音も立てず出口の方へ出ていつてしまつたのでした。駈《か》けつけた三人は呆然《ぼうぜん》とその後ろ姿を見おくりました。ふとHさんが気がつい
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