我夢中で、暗がりの梯子段《はしごだん》をよくまあ踏みはづさなかつたと思ふくらゐ、下の座敷へ飛びこんでみると庭の雨戸はいつのまにか一枚のこらず外され、おやもう夜が明けるのかしらと思つたほど明るかつた。その中で甲斐々々《かいがい》しく立ち働らいてゐる人影が、お母さんやお祖母《ばあ》さんや若い女中だといふことにさへ咄嗟《とっさ》には気がつかなかつたさうです。そこへ縁先から飛びこんできた兄さんに何やら大きな声でどなりつけられ、やつと目が覚めたやうな思ひがしたのもほんの束の間で、あとはまたもや無我夢中。……「大学へ逃げろ。大学へ逃げろ」と、誰かの大声が耳のなかでがんがんするばかり、それにそこらぢゆう一面まるで花火をばら撒《ま》きでもしたやうな閃光《せんこう》で埋まつてゐるやうな気がしただけださうです。
Hさんがやつと炎の海に気づいた時は、大学病院寄りの電車道でお母さんの手をしつかり握つて立つてゐました。一しきり何か物凄《ものすご》い音がして、途方もなく大きな火の蛇《へび》が、ざざーつと這《は》ひ過ぎたのをはつきり覚えてゐるさうです。Hさんはお母さんと大学病院の繁《しげ》みのなかで夜を明かしまし
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