から手をはなす瞬間だけは気をつけないとあぶない。その時そつとうしろから手を持ち添へてやれば、ひとりでにまた元の場所に仰向《あおむ》けに寝てしまふ。決してあわてて声を立てたり、揺りおこさうなどとしてはいけない……まあそんな話でした。
 そんな話をしてくれる保姆《ほぼ》さんと一しよに千恵がこはごはじつと見てゐると、その子は手すりに両手をかけたまま、まんじりともせずに中有《ちゅうう》をみつめてゐました。うつろな大きな眼でした。昼間みると青々と澄んだきれいな眼をした子なのでしたが、とろんと黄いろい電燈のしたで見るせゐでせうか、まるで浮きあがつた魚のやうな気味のわるい白眼に見えました。瞳孔《どうこう》もかなり大きく開いてゐるのですが、それの向いてゐる先は天井ともつかず壁ともつかず、かといつて真ん前からさし覗《のぞ》いてゐる保姆さんの顔でも千恵の顔でも勿論《もちろん》ありません。まるで何かそのへんにふわふわ漂つてゐるものがあつて、それにぼんやり見とれてゐでもするやうな様子でした。思ひなしかその視線は、じわじわと移つてゆくやうでもあります。けれどその動きは、決してあの分針の動きより速くはないやうに思
前へ 次へ
全86ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング