ろ運命とも言ふべきものでした。千恵はそれを冷静に書きしるしませう。運命の前に驚きあわてることは、ひよつとすると人間の傲慢《ごうまん》さなのかも知れません。それをどうぞお考へください。
産院といつても、千恵の廻されたのは施療別館の方で、それは殆《ほとん》ど川ぞひと云つてもいいほどの構内の東南隅にぽつんと立つてゐる木造の古びた別棟でした。夜が更けてあたりがひときはシーンとすると、川を上り下りするポンポン蒸汽の音が、たまらないほど耳につくのです。夜勤は九時から二時までとなつてゐましたから、番のあひだはその音が結構ねむけ覚ましになるのですが、いざ宿直室へ引きとつて眠らうとすると、その鈍い規則的な爆音が意地わるく耳について、なかなか寝つけないのでした。千恵の受持ちはその産院のなかでも、ふつう産児室と呼ばれてゐる二つの大きな部屋でした。そこへは廊下と扉にへだてられて、産児のにぎやかな泣声もそれをあやす貧しい母親たちの声も、ほとんど聞えて来ません。この二た部屋に収容されるのが、あるひは産褥《さんじょく》で母親と死別したり、またはその他の事情で生まれて早々母親と生別しなければならなかつた、不幸な嬰児
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