ないのです。千恵はそこまではつきり申しあげてもいいのです。……
でも時たまは、姉さまをほんとにお気の毒だと思ふこともないではありません。なにかしら姉さまのためにお祈りしたいやうな気持の湧《わ》くこともあります。でもその祈りの気持といふのは、煎《せん》じつめてみると結局、このうへ姉さまに俗世のきづなの苦しみを与へてはならないのだ――といふことに落ちついてしまひます。もうすこしきれいな言ひ方をすると、それは姉さまの幸福を傷つけたくないといふ気持――そんなふうにも言へるのかも知れません。
母さま、――これは偽善の言葉でせうか? でも千恵は、偽善なら偽善でいいのです。そんな偽善よりももつと怖ろしい悪に、わたしたち人間は知らず知らず落ちこみがちなことに、千恵はやうやく気づいてをります。それを母さまの前ではつきり何と名ざすのは、なんぼ千恵でも随分とつらいことです。まあそんな話はやめに致しませう。そろそろ夜明けが近いやうな空気の薄さが感じられます。今日は朝十時から子宮|癌《がん》患者の手術があります。千恵はG先生のお手伝ひをすることになつてゐるので、明るくならないうちに一時間でも二時間でも眠つておかなくてはなりません。では御機嫌よう。これで千恵はおしまひに致します。
それにしても、お母さま、もしわたしたちのS家にたいする態度が、当時あれほど寛大でなかつたら、わたしたちは狂気の姉さまとふたたび仲よく暮らせたでせうに!……
底本:「日本幻想文学集成19 神西清」国書刊行会
1993(平成5)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「神西清全集」文治堂
1961(昭和36)年発行
初出:「別冊芸術」
1949(昭和24)年3月発行
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆、小林繁雄、Juki
2008年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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