ぶや》いて、首を引つこめようとしましたが、うしろから覗きこんでゐる千恵に気がつくと、すぐまた気を変へて、
「ちよつとはいつてみる? あの人らしい絵がどつさりあるわよ。この物置、あの人のアトリエなんだもの。」
千恵はうなづきました。あの片腕のない奇妙な青年がどんな絵をかくのか、ちよつと見て置きたい気持がしたのです。
さして広くもない部屋が、半分ほどは椅子《いす》テーブルの山でした。小さな窓が一つあいてゐて、その下に白木のきたならしいデスクが押しつけてあります。その前に椅子が一つ、その背中に千恵にも見覚えのある油じみたブラウスが、だらんと投げかけてありました。床の入口に近いところに、これもやはり油じみて黒光りのしてゐる冷飯草履《ひやめしぞうり》が丁寧に揃《そろ》へてあり、身の廻りのものといつたら唯《ただ》それだけ、あとは足の踏み場もないほど、ぎつしり画架やカンヴァスで埋まつてゐるのでした。
「岡田さんなんかの話だと、これでなかなか見どころがあるんださうだけど、あたしにや何のことやらさつぱり分りやしない。……」
そんなことをぶつぶつ言つてゐるHさんを差し置いて、千恵はいつの間にか部屋の中ほどに立つて、互ひにもたれ掛つたり隠しあつたりしてゐる絵の上に、あてどのない視線をさまよはせてゐました。自画像らしい描きかけの絵もありました。白|鬚《ひげ》の老人の肖像もありました。風景画はほとんどなく、大抵は人物や街頭の光景を扱つたものでしたが、ふとその下から半分ほど覗いてゐるかなり大きな絵に目を惹《ひ》かれて、それを邪魔してゐる絵をそつと片寄せたとき、千恵の注意は思はずその画面に釘づけになつてしまひました。
あれは何号といふのでせうか、四|尺《しゃく》に三尺ほどの横長の絵でした。前景には瘠《や》せこけて骨ばつた男の裸体が、長々と画面いつぱいに横たはつてゐます。そのすぐ後ろの中央には、黒衣の婦人が坐《すわ》つて、どこか中有《ちゅうう》を見つめてゐます。そのうしろには氷河だか石の壁だか、とにかく白々《しらじら》とした帯が水平に流れ、背景ははるかな樅《もみ》の林らしく濃い緑いろでした。千恵が注意をひきつけられたのは、なかでもその婦人の眼つきでした。はじめは中有を見つめてゐるやうに思へたその眼が、よく見ると殆《ほとん》どねむつてゐるのでした。その重なり合つた上下の目蓋《まぶた》の間から
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