内をさまよつてゐたことさへあつたと云ふことです。当のさがす相手も、もはや幼な子の惨死体などではなくて、まぎれもないあの古島さんの生ける姿だつたらしいことは、姉さまの挙動や眼つきを遠目ながら窺《うかが》ふ機会のあつたほどの人なら、異口同音に断言したさうです。もちろん古島さんはすつかり怖気《おぞけ》をふるつてしまつて、姉さまの紫色のモンペ姿がちらりと見えようものなら、血相かへて自分の部屋へ逃げこんでしまふのでした。それでも出逢《であ》ひがしらに危くつかまりさうになつたことも、一二度はあつたさうです。
「色きちがひぢやないかね……そんな噂《うわさ》までが、会堂の関係者のあひだに、ひそひそ声でささやかれたものでしたよ。もつとも私たちに言はせれば、あのSの奥さんは、やつぱりここんところ(と、自分の額《ひたい》を指さきで軽く叩《たた》いてみせて――)が、ちよいと変になつてゐるだけのことだといふぐらゐは、まあ見当がついちやゐましたがね。……」
 とHさんは長談義をやうやく結びながら、ニッと冷やかな微笑を浮べて、またもやあの忌《いま》はしい病気の名を口にするのでした。……風が出て、一しきり松原を鳴らして過ぎました。飛行機が一台、かなりゆるい速度で海の方からはいつて来て、都心の方角へ遠ざかつてゆきました。そんな物音が夜の深さをしんしんと感じさせたのを千恵はよく覚えてをります。語りやんだHさんはさも誇らしげな目つきで、じろじろ千恵の顔を観察してゐました。もちろん千恵の唇には血の気が失《う》せてゐたでせう。そのくせ、「見たけりやたんと見るがいい!」とでも云つた捨鉢《すてばち》な、しかも妙な落着きのやうなものが千恵の胸のそこにはありました。ふてくされながら、かげで舌を出してるみたいな気持でした。汚辱とでも屈辱とでも云へる或る毒気のやうなものが千恵のおなかの中に渦巻いてゐるのは事実でしたが、しかもそれが鵜《う》の毛ほどもHさんに感づかれてゐないといふ自信は、なんとしても快いものでした。「ええ、わたしはこの通り臆病《おくびょう》な小娘ですのよ」――すなほに伏目《ふしめ》を作りながら、千恵は思ふぞんぶんHさんに凱歌《がいか》を奏させてあげたのです。それがせめてものお礼ごころなのでした。
 交替の時間まではまだ少し間がありました。そのうちだんだん千恵も口をきく余裕が出てきて、二つ三つ腑《ふ》に落ち
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