けの余裕があつたさうです。その眼の印象を古島さんは、前にも記しました通り、「それはあのかた[#「あのかた」に傍点]の眼でした、確かにあのかた[#「あのかた」に傍点]の眼でした……」と司祭さんに告げたのでした。この「あのかた」といふのが誰を指すものか、Hさんの話を聞いた当座の千恵には分りませんでした。Hさん自身にしても分つてゐなかつたのでせう。けれど、やがてあとになつて……
 いいえ、千恵はなんだか頭がこんぐらかつて来ました。窓を、窓をあけようと思ひます。……
   ………………………………………
 夜気が流れこんで来ます。まるで霜《しも》のやうに白々《しらじら》とした夜気です。北の空は痛いほど冴《さ》えかへつて、いつのまにか母さまのお好きなあの七つ星が中ぞら近くかかつてゐます。もう夜半はとうに過ぎたのでせう。なんの物音もしません。しんしんと泌《し》みこむ夜気を、千恵の頭はむしろ涼しいやうに感じます。しばらく、向ふの森かげから覗《のぞ》いてゐる焼けただれた工場の黒々とした残骸《ざんがい》に、千恵はほうけたやうに見入つてをりました。
 だいぶ頭が冷えて来ました。まだ頭の芯《しん》は妙にもやもや火照《ほて》つてゐますけれど、でももうあと一踏んばりです。千恵はこの手紙をとにかく最後まで書きあげて、封をしてしまはないことには、とても今夜は眠れさうもありません。あとほんの少しです。母さまももう暫《しばら》くがまんして下さい。……
 どこまで書きましたかしら? ああさうさう、「あのかた」といふ文句で千恵は爪《つま》づいたのでした。
 Hさんの話によると、姉さまの姿はその後もちよいちよいN会堂の構内に見受けられたさうです。残りの屍骸《しがい》は約束どほりその翌《あく》る朝には全部はこび去られ、聖堂の浄《きよ》めもすつかり済んだあとでは、日ましに烈《はげ》しくなる空襲のもと、正面の鉄扉は再び固くとざされてしまつたので、もちろん姉さまは堂内にはいつてわが子の屍体をさがし求める機会は二度と再びありませんでした。その頃はもう通り抜ける人影も稀《まれ》な上に、植込みのそこここには空掘《からぼ》りの防空壕《ぼうくうごう》も散在してゐようといふ荒れさびた聖堂の構内を、姉さまは当てもなくうろつくだけのことでした。その時間も、十分二十分と行きつ戻りつするならまだしものこと、時によると一時間ちかくも構
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