してやおぽんぽもまだ大きくなつてはをりません。……こんな話が出ると、顔を赤くなさるのはきまつてお母さまの方で、姉さまや千恵は却《かえ》つてけろりとした顔をしてをりましたつけね。ずいぶん昔の思ひ出です。もう一つついでに、あれはまだお父様の御在世中のことで、もう十年あまりも前のことになるでせうか、姉さまの縁談で仲うどのCさんが見えてゐた時、お母さまは「……たしかあれはまだ処女のはずで……」と仰《おっ》しやいましたつけね。あの時ちやうどドアのかげで、こつそり立聴きしてゐた姉さまと千恵とは、もうをかしくつてをかしくつて笑ひがとまらず、両手で顔をおさへて這《は》ふやうにして奥へ逃げこんだものでした。あの頃のことを思ひ出すとまるで夢のやうな気がします。
 そのCさん御夫妻が間もなく亡くなり、つづいてお父様が、やがて姉さまの縁づいた先のS家のお父様もなくなりました。あんまり死が立てつづけに続くので、ついその方に気をとられてゐるひまに、大陸の方の戦争はいつのまにか段々ひろがつて、たうとう潤吉兄さまは応召将校として大陸に渡つておいでになつたのでしたね。かうしてS家には、お母さまと姉さまと、それにまだ赤んぼの男の子――あの潤太郎さんと、それだけしかゐなくなつた時になつて、千恵ははじめて姉さまがじつは千恵の実の姉さまではなくて、亡くなつた前のお母さまの忘れがたみだつたといふことを初めて知つたのでした。いいえ、知つたのではありません、無理やり、いや応なしに、ざんこくな方法で知らされたのでした。それがあんまり残酷な方法だつたので、腹ちがひといふ事実そのものや、それからぢかに筋をひくさまざまな感動や驚きや怨《うら》みや憎しみなどは、何ひとつ感じないで済んだほどでした。羞《はず》かしめさへ感じないですんだのでした。やつと十九になつたかならぬの千恵の心の歴史にとつて、それはまだしも幸ひだつたとお母さまは言つて下さるのですか? けれど千恵は、そんなつもりでこれを申すのではありません。心にしろからだにしろ、どうせ傷つかずには済まぬものなら、いつそ早い時機に、なんとかまだ癒着力のあるうちに、思ひきり傷ついてしまつた方がいいと思ひます。……少くも……すくなくも昨日のあの怖ろしい姿をこの目で見てしまつた今になつては、千恵はさう信じないわけには行かないのです。
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 何をかう
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