つて》もないことは分つていただけるでせう。もし偶然の手助けがなかつたら、姉さまにめぐりあふ見込みはまづ全くなかつたのでした。
 ですから一たん病院の庭で姉さまの姿を見てからといふもの、そして危く言葉をかけそこねて以来といふもの、千恵にはこのめぐりあひが只《ただ》の偶然ではなくて、何かもつと深い或る予定のあらはれとしか思へなくなりました。さう思ふのもやはり、はかない人間の気休めの一種なのかも知れませんが、とにかく千恵は、このめぐりあひの意味なり正体なりを、じつと見つめてやらうと心に誓ひました。さうなるともう、(申し訳のないことですが――)姉さま自身のその後の運命や、またそれに就いてのお母さまの心づかひなどは、第二第三の問題にすぎないのでした。千恵はつまり、こつちは一さい姿をあらはさずに、こつそり姉さまの跡をつけてやらうと決心したのです。
 もちろん第一着手は、姉さまの病室や病名を調べることでした。これは診療カードを繰《く》れば造作もなく分りました。病名は抑鬱《よくうつ》症でした。軽度だが慢性に近いとも書いてありました。病室は三階の三一八号で、これはちやうどその頃わたしが同級のK子さんと一緒に看護婦見習をつとめてゐた三〇一号から三〇八号室までの一郭とは反対側の、東側病棟のほぼ中央にある部屋でした。受持の看護婦が、Fさんといふ殆《ほとん》ど婦長次席とも云つてもいいくらゐの格の人だといふことも、すぐに分りました。この病院では外部からの附添看護婦といふものを一さい受けつけず、どんな重症患者、どんな長期入院患者の場合でも、かならず病院直属の看護婦が受けもつことになつてゐるのです。
 ところで、その三階の東側病棟といふのは、聖アグネス病院のなかでは一種特別の扱ひを受けてゐる、ちよつと神秘めいた一郭なのでした。看護婦仲間の通りことばでは、「神聖区域」と呼ばれてゐましたが、たしかにそこは、わたしたち実習生がやがてもう三ヶ月近くにもならうといふ実習期間を通じて、たえて足ぶみを許された例《ため》しのなかつた区域なのでした。うはさによれば、それは或る特別扱ひの患者だけを収容する大型の病室から成つてゐて、まあ一種の禁断の場所のやうなものだといふことでした。特別扱ひといつても、何もそれが財力だの門閥《もんばつ》だのといふ俗世の特権ばかりを目やすにしたものでないことは、もともとこの病院の帯びてゐ
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