ったもんだが、それが今じゃ、郵便のお役人だの駅長だのを迎えにやって、それさえいい顔をして来やしない。どうもわしも、めっきり弱くなったよ。亡《な》くなった大旦那《おおだんな》さまは、みんなの病気を、いつも封蝋《ふうろう》で療治なすったものだ。今でもわしは、毎にち封蝋をのんでるが、これでもう二十六年か、その上にもなるかな。わしがこうして生きているのは、そのおかげかも知れんて。
ヤーシャ お前さんの話にも、あきあきするよ、爺さん。(あくび)いっそさっさと、くたばっちまえばいいになあ。
フィールス ええ、この……出来そこねえめが! (ぶつぶつ呟《つぶや》く)
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トロフィーモフとラネーフスカヤが広間で踊り、やがて客間で踊る。
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ラネーフスカヤ ありがとう《メルシ》。わたし、ちょっと休みます。……(腰かける)疲れたわ。
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アーニャ登場。
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アーニャ (わくわくして)いま台所で、どこかの人が、桜の園は今日、売れてしまったと話していたわ。
ラネーフスカヤ 誰《だれ》が買ったの。
アーニャ 誰とも言わずに、行ってしまったの。(トロフィーモフと踊る。ふたり広間へ去る)
ヤーシャ それはね、どこかの爺さんがしゃべってたんでさあ、よそもんでしたがね。
フィールス 旦那さまは、まだ見えない、まだお帰りがない。外套《がいとう》は、薄い合着を召してお出かけだったが、もしや風邪でもお引きにならなけりゃいいが、いやはや、若い人というもんは!
ラネーフスカヤ わたし、今にも死にそうだ。ヤーシャ、向うへ行って聞いてきておくれ、誰が買ったのだか。
ヤーシャ でも、とっくに行ってしまいましたよ、その爺さんは。(笑う)
ラネーフスカヤ (いささかムッとして)まあ、何を笑うの、お前は? 何が嬉《うれ》しいの?
ヤーシャ あんまり、エピホードフのやつがおかしいもんで。いや、つまらん男で。二十二の不仕合せ。
ラネーフスカヤ フィールス、この領地が売れてしまったら、おまえどこへ行くつもり?
フィールス 仰《おお》せのままに、どこへでも参ります。
ラネーフスカヤ お前、どうしてそんな顔をしてるの? 加減でも悪いの? 向うへ行って、
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