《め》が霞《かす》んでしまったみたいで、何一つ見えないの。あなたはどんな重大な問題でも、勇敢にズバリと決めてしまいなさるけれど、でもどうでしょう、それはまだあなたが若くって、何一つ自分の問題を苦しみ抜いたことがないからじゃないかしら? あなたが勇敢に前のほうばかり見ているのも、元をただせば、まだ本当の人生の姿があなたの若い眼から匿《かく》されているので、怖いものなしなんだからじゃないかしら? わたしたちに比べれば、あなたはずっと勇敢で、正直で、深刻だけれど、もっとよく考えてね、爪《つめ》の先ほどでもいいから寛大な気持になって、わたしを大目に見てちょうだい。だってわたしは、ここで生れたんだし、お父さんもお母さんも、お祖父《じい》さんも、ここに住んでいたんですもの。わたしはこの家がしんから好きだし、桜の園のないわたしの生活なんか、だいいち考えられやしない。どうしても売らなければいけないのなら、いっそこのわたしも、庭と一緒に売ってちょうだい。……(トロフィーモフを抱きしめて、その額にキスする)坊やもここで、溺《おぼ》れ死んだんですものね。……(泣く)わたしを哀れと思って、ね、あなたは親切な、いい人ですもの。
トロフィーモフ ぼくが心《しん》から同情してること、ご存じじゃないですか。
ラネーフスカヤ そんならそれで、何かもっと、別の言い方があるはずだわ。……(ハンカチを取りだす拍子に、電報がゆかへ落ちる)わたし今日は気が重くてならない。この気持、とてもあなたにはわからないわ。ここは騒々しくって、物音一つするごとに、胸がドキリとする。からだじゅう、ふるえてくる。でも、居間へ引っこむわけにもいかない。静かなところに、一人でいるのはやりきれないもの。わたしを責めないでね、ペーチャ。……わたしあなたが好きで、他人のような気がしない。あなたになら、わたし喜んでアーニャを上げるわ、ほんとによ。でもただね、あなたは勉強しなくちゃ駄目《だめ》、卒業しなくちゃね。あなたはなんにもせずに、運命のままにふらふらしてなさるけれど、ほんとに妙だわ。……そうじゃなくて? ね? それに、その顎《あご》ひげだって生やすなら生やすで、も少しなんとかしなくちゃねえ。……(笑う)可笑《おか》しな人!
トロフィーモフ (電報を拾って)僕は好男子になりたかありません。
ラネーフスカヤ これ、パリから来た電報なの。毎
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