祖父さんも、もっと前の先祖も、みんな農奴制度の讃美者《さんびしゃ》で、生きた魂を奴隷《どれい》にしてしぼり上げていたんです。で、どうです、この庭の桜の一つ一つから、その葉の一枚一枚から、その幹の一本一本から、人間の眼《め》があなたを見ていはしませんか、その声があなたには聞えませんか? ……生[#「生」に「*」の傍記]きた魂を、わが物顔にこき使っているうちに――それがあなたがたを皆、むかし生きていた人も、現在いきている人も、すっかり堕落させてしまって、あなたのお母さんも、あなたも、伯父さんも、自分の腹を痛めずに、他人《ひと》のふところで、暮していることにはもう気がつかない、――あなた方が控室より先へは通さない連中の、ふところでね。([#ここから割り注]訳注 *以下は上演当時の検閲のため削除されたので、一九〇四年の初版本には、次のように言いかえられていた。――「ああ、怖ろしいことだ、お宅の庭は不気味です。晩か夜なかに庭を通り抜けると、桜の木の古い皮がぼんやり光って、さも桜の木が、百年二百年まえにあったことを夢に見ながら、重くるしい幻にうなされているような気がします。いやはや、まったく!」[#ここで割り注終わり])……われわれは、少なくも二百年は後れています。ロシアにはまだ、まるで何一つない。過去にたいする断乎《だんこ》たる態度ももたず、われわれはただ哲学をならべて、憂鬱《ゆううつ》をかこったり、ウオッカを飲んだりしているだけです。だから、これはもう明らかじゃありませんか、われわれが改めて現在に生きはじめるためには、まずわれわれの過去をあがない、それと縁を切らなければならないことはね。過去をあがなうには、道は一つしかない、――それは苦悩です。世の常ならぬ、不断の勤労です。そこをわかってください、アーニャ。
アーニャ わたしたちの今住んでいる家《うち》は、もうとうに、わたしたちの家じゃないのよ。だからわたし出て行くわ。誓ってよ。
トロフィーモフ もしあなたが、家政の鍵《かぎ》をあずかっているのなら、それを井戸のなかへぶちこんで、出てらっしゃい。そして自由になるんです、風のようにね。
アーニャ (感激して)それ、すばらしい表現だわ!
トロフィーモフ 信じてください、アーニャ、僕を信じて! 僕はまだ三十にならない、僕は若い、まだ学生ですが、これでずいぶん苦労はして来ましたよ! 
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