の県のうちで、何かしらちっとは増しな、それどころかすばらしいものがあるとすれば、それはうちの桜の園だけですよ。
ロパーヒン そのすばらしいというのも、結局はだだっぴろいだけの話です。桜んぼは二年に一度なるだけだし、それだって、やり場がないじゃありませんか。誰ひとり買手がないのでね。
ガーエフ 『百科事典』にだって、この庭のことは出ている。
ロパーヒン (時計をのぞいて)これといった思案も浮ばず、なんの結論も出ないとなると、八月の二十二日には、桜の園はむろんのこと、領地すっかり、競売に出てしまうのですよ。思いっきりが肝腎《かんじん》です! ほかに打つ手はありません、ほんとです。ないとなったら、ないのですから。
フィールス 昔は、さよう四、五十年まえには、桜んぼを乾《ほ》して、砂糖づけにしたり、酢につけたり、ジャムに煮たりしたものだった。それから、よく……
ガーエフ 黙っていろ、フィールス。
フィールス それからよく、乾した桜んぼを、荷馬車に何台も積んで、モスクワやハリコフへ出したもんでござんしたよ。大したお金でしたわい! 乾した桜んぼだって、あの頃《ころ》は柔らかくてな、汁気《しるけ》があって、甘味があって、よい香りでしたよ。……あの頃は、こさえ方を知っていたのでな……
ラネーフスカヤ そのこさえ方が、今どうなったの?
フィールス 忘れちまいましたので。誰《だれ》も覚えちゃおりません。
ピーシチク (ラネーフスカヤ夫人に)パリはいかがでした? ええ? 蛙《かえる》をあがりましたか?
ラネーフスカヤ ワニを食べましたよ。
ピーシチク こりゃ、どうだ……
ロパーヒン 今まで田舎といえば、地主と百姓しかいませんでしたが、今日《こんにち》では別荘人種というものが現われています。どんな町でも、どんな小っぽけな町でも、ぐるり一めん別荘が建っています。このぶんでいくと、二十年もしたら、別荘人種はどえらい数になるでしょう。今でこそあの連中は、バルコンでお茶を飲むのがせいぜいですが、あに図らんややがては、あの連中もめいめい三千坪の地面で、農作をはじめるかも知れない。そのあかつきには、お宅の桜の園も、豪勢な、ゆたかな、地上の天国になるでしょう。
ガーエフ (憤慨して)じつにくだらん!

[#ここから2字下げ]
ワーリャ、ヤーシャ登場。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、
前へ 次へ
全63ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
神西 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング