套《がいとう》をきて外からはいってくる。
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トロフィーモフ そろそろ出かける時間らしいな。馬車も来ている。だが癪《しゃく》だな、僕《ぼく》のオーバーシューズはどこなんだ。消えてなくなっちまったよ。(ドアの口へ)アーニャ、ぼくのオーバーシューズがないんです! 見つからないんです!
ロパーヒン わたしは、ハリコフへ行かなければならん。君たちと同じ汽車にするよ。ハリコフで、この一冬こすのさ。わたしはだいぶ長いこと、おつきあいでぶらぶらしていて、仕事にならんで閉口したよ。働かずにゃいられない性分でね、第一この両手の始末にこまるんだ。なんだか妙にこうブランブランして、まるで他人の手みたいだ。
トロフィーモフ おっつけ、みんな行っちまいますよ。そこでまた有益な事業とやらに、着手なさるがいいさ。
ロパーヒン どう、一杯やらないかね。
トロフィーモフ いや、結構。
ロパーヒン じゃ、こんどはモスクワかね?
トロフィーモフ そう、皆さんを町まで送って行って、あしたはモスクワだ。
ロパーヒン なるほど。……まあいいさ、大学の先生はみんな、君の来るまで、講義をせずに待ってるだろうからな!
トロフィーモフ よけいなお世話だ。
ロパーヒン 君は一体、大学に何年いるんだね?
トロフィーモフ 何かもっと、新しい手を考えたらどうだい? その手は古いし、平凡だよ。(オーバーシューズをさがす)ねえ君、僕たちはこれで、おそらく二度と会う時はあるまい。そこで一つ君に、お別れの忠告をさせてもらいたいんだがね――両手を振りまわすな、これさ! そのぶんぶん振りまわす癖を、ひとつやめるんだね。こんどの別荘建築案にしてもそれだ。やがてその別荘の連中が、だんだん独立した農場主になって行くだろうなんてソロバンをはじくこと――そんな目算を立てることがそもそも、両手を振りまわすことなんだよ。……まあそれはそれとして、僕はやっぱり君が好きだ。君は役者か音楽家にでもありそうな、やさしい華奢《きゃしゃ》な指をしている。そして君の心もちも、根はやさしくて華奢なんだよ。……
ロパーヒン (彼を抱いて)じゃこれでお別れだ、ペーチャ君。いろいろありがとう。もしいるんだったら、道中の費用に少し持って行かんかね。
トロフィーモフ なんだって僕に? いらないよ。
ロパーヒ
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