ち顔に見えるのである。
 すつかり夜になつて、裏山に月が出た。男のかくれてゐる萩のしげみが、さやさやと鳴る。妻はふと、
「ああ風が出た。竜田山の草も木も、さぞ白波のやうにそよぐことだらう。そのなかを、ちやうど真夜中ごろ、あの方は一人でお越えになるのだ」と独りごちた。
 男はどきりとした。恥かしさと、いとほしさが、胸にこみ上げてきた。清らかに化粧した妻の顔が、月かげに濡れてゐるのを、男は吾を忘れて見まもつてゐた。……
 それからのち、男はもう河内の女のところへ、あまり通はないやうになつた。

 それでも時たまは、仕入れの旅の疲れを、高安の女のところで休めることが、ないではなかつた。その女は、はじめのうちこそ念入りに化粧をして迎へるのだつたが、やがてだんだん気をゆるして、男の泊つてゆくやうな晩でも、しどけない細帯すがたで、膝をくずしてゐたりした。
 ある日、ふと前ぶれもなく、その女の家へ寄ることになつて、垣のすきまから何気なしに覗いてみると、女はちやうど食事をするところであつた。例によつて細帯すがたで、横坐りをして、召使もゐないではないのに、手づから杓文字をにぎつて、大きな飯びつから飯をお椀に盛つてゐる。面長な色の白い女である。唇ばかり毒々しく塗り立ててゐる。それが何だか赤児でも食つたやうに見えた。
 男は身ぶるひをして、そのまま立ち去つた。

 女からは歌を添へなどした消息が度々きたが、男はもはやふつつり通はなくなつた。
 これは古い物語である。――



底本:「日本の名随筆 別巻39 化粧」作品社
   1994(平成6)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「神西清全集 第三巻」文治堂書店
   1961(昭和36)年10月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2007年12月12日作成
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